- 北の空からみなみへ -
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カテゴリ:  pre/pro( 60 )
砂場遊び /2
2018年 02月 03日
コマンドラインで実験してみた。

論理シフトの引用符で閉じた後ろに数字や式を書くと、引用符は閉じてない如くに動作しているとわかる。
c0062295_18371278.gif

ここで、もしかしたら。。。と思って、引用符の前に数字を書いてみた。
やはり引用符は優先されてはいない。
c0062295_19035500.gif

そこで今度は、引用符で囲まれた中に引用符を入れ扱ってみた。
for /F で文字列を扱うと、こういう動きもある。
c0062295_19303009.gif

実に面白いことに、特殊記号文字もリテラルな扱いをするのが for /F 流
c0062295_19513818.gif
aha! おばかですね、↑を書いた私。
これは、
> set "bbb" & set aaa
とやったから、変数 %"bbb"% がないからこうなっただけじゃん。
そういえば、一文字変数でない変数には空白を含めた変数もあるから、引用符で変数名を囲わないといけないケースもあるのか。< いや %~ ~% で囲われてるから、関係ないような。。

こうして無間地獄よろしく、疑問が疑問をよびつつ、無為に時間を消費する。。¡haa!


変数の中に特殊文字あると、予想外な結果となるケースがあるな
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by bucmacoto | 2018-02-03 21:22 |   pre/pro | Trackback | Comments(0)
広告入りブログ記事ってどういうものかの実験
2010年 07月 01日
7月からの記事内広告表示に関するお知らせ

フォトは、先日OS再インストールに踏み切ったときに待ち時間で撮影した。(私の定点観測場所)

c0062295_19345943.jpg


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by bucmacoto | 2010-07-01 19:40 |   pre/pro | Trackback | Comments(8)
セオリー主義 versus メカニズム主義
2009年 10月 10日
ダーウィンの進化論 = 環境に適応したものが生き残る(強者が生き延びるのではなく、適者が生き永らえる)

これって メカニズムを記述したものなんだろうなぁ。。

だとか昨夜ふと思った。


メカニズム重視は、プロセス重視や個の重要視と共通する視点なのだと思う。
先日、とあるブログのコメント欄で、「官僚主義 vs 利己主義」の観点を書いたら、形式主義よりマキャベリズムのほうが実害は少ないと返された。
実は マキャベリについてはよくわからなかったのでちょこっと調べてみたら、なるほど根幹から枝葉まで一貫したセオリーに透徹された思想というよりも、その場・状況・その環境で導かれるメカニズムを重視した言説、その集積だと感じたのでした。


人間が目的をもって形成する組織には、チームから国家に至るまでさまざまある。
組織形成の動機には、目的がある。
(警察なら治安、消防なら防災、医療なら患者から苦を除き安楽さを与える といったぐあい)

このような思考形式は、マキャベリにとっては理想主義(つか夢想主義?)に映るのでしょう。


目的と手段の分離。 これがマキャベリの視点だそうだ。


分離も必要(引きずられすぎたら合理的=最適を見失う)。
連携も失くせない(でないと 目的が小さなエゴにすり替わった組織=利己主義が蔓延した組織 ができあがる)。



形式主義・官僚主義 で困るのは、組織のルールを、利己心・競争心の充足に流用する ── いわゆる権威主義(虎の威を借る狐) ── がはびこるケース。
個人主義・無政府主義 が厄介な場合とは、個別性・自制心・関係性を重視するあまり、縁故・血縁・地縁などに振り回されるようになりやすい点。


まぁ、この両者の悪いところを併せ持った人物像を描くなら、小説の題材かゴシップ攻撃できそうな人物のできあがりになる。 だろう。 たぶん。

よいところだけ(組織重視と個人重視 あるいは セオリー尊重とメカニズム注視)を生かすようにしなけりゃ、まともな組織ってのは成り立たないのだろう。



性善説 と 性悪説。 このふたつを「結局はおんなじさ」と論じた人がいた。

「無垢なる魂をもって生まれて、この世の辱悪に染まってゆく。 これが性善説。
 悪業を背負いながら、この世でその汚れをひとつずつ洗い流す。 これが性悪説。

 どっちも、最後は無垢なる魂を取り戻して天国にいたるか、地獄の業火に焼かれ滅するか。
 どっちにしたって、この世の振る舞いで決まるんだ。 ということだ。」

まぁこの御仁、もっともらしい大嘘をいっぱい吐(つ)くお人ではあったのですが ^^;



よい点をほめてのばす vs 悪いことを根絶やしにする

このふたつは、等価なものかとだいぶ長きに渡って考えつづけたものだった。

そして、結論としては、こうなった。


最後に感謝という脆くて大切な気持ちを育めるならそれが最適な解なのだ。


それは 「全体」 を見失っても成立しない。 し。 「細部」をないがしろにしても生きてこない。


それが結論だった。
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by bucmacoto | 2009-10-10 21:39 |   pre/pro
天の川撮影未成功
2009年 09月 27日
昨夜、職場から戻る途中に星空がとても綺麗でした。
そこで山の方向へ自転車を押していって天の川撮影に挑戦。

結局、カシオペア~スバル範囲で6枚加算しても天の川は現れず・・・orz...

c0062295_1617543.jpg

HDR-Photoソフトだから?(それもトライアル)
というより、やはり技術的な腕前なんでしょう。

だいたいがピントだしからして大アマなんですもん。
木星以外の星は全くファインダーでは見えないんですよね。

あと今回、ノイズリダクションオフで発見したのが、撮像素子の明点の存在 = 赤と青とくっきりと。

はたしていつの日か、メタボコンデジ(sp550uz)で天の川って撮れるのかなぁ。。

追記(他サイトでの天の川の写真たち)
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by bucmacoto | 2009-09-27 16:25 |   pre/pro | Trackback | Comments(7)
居場所 逃げ場所 戦いの場
2009年 09月 13日
居場所を守ること、奪われないこと、生きていけること。
これを現代風にいうと、自衛・国防・人権となるのだろう。

逃げ場所を奪わないこと。
信教の自由も、良心の自由も、人道の保護も、これに尽きるだろう。

戦いの場を失うこと。 それは希望の喪失に思えることもあるだろう。
居場所も逃げ場所も喪失して、残された唯一の場所に蓄えられたものが、
武器と悔しさと憎しみとで積み上げられた仇敵への敵愾心だけだったなら、
それはテロの温床となるだろう。

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by bucmacoto | 2009-09-13 13:52 |   pre/pro | Trackback | Comments(0)

2009年 09月 06日
真実の勇気と
見せ掛けのそれと

切実な忍耐と
脅えに過ぎないそれと

かみひとえに分かつものは
潔さ

そう
なのかもしれない


brave : (危険や困難に出会っても恐れない)勇敢な,勇ましい

いえね。 ブレイブ・ストーリーという言葉に反応してみたのです。 ^^
アニメ映画『ブレイブ・ストーリー』の主題歌ってこういうのだったのですね。

 さくさく : 捧ぐ
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by bucmacoto | 2009-09-06 18:03 |   pre/pro
仕切り感覚
2009年 08月 03日
仕切りたがりというのは、煙たがられるか嫌われる。

その一方、(仕切られるのは嫌いであるのに)仕切っている感覚に浸っていると一種の陶酔感がある。
陶酔感と呼ぶと過激だろうが、(少しマイルドな表現で)充実感や達成感という「やりがいの果実」には、「自分が全てを掌握し、コントロールし、適切な状態を保持できている」という「仕切り感覚」があってこその満足感だと思う。

年若い仕切り屋は生意気と呼ばれるし、年老いた仕切り屋は老害のように扱われる。

それなのに、(自分も含め)多くの人は、自己決定権とか自由とか人権という名目で せめて自分のことくらいは自分で決めたいと切望する。
自分のことを仕切る権利だけは取り上げられたくないという認識が、人権の基本形なのかもしれない。

近代と呼ばれる時代がいつに始まるかは緒論あるが、ざっくりとルネサンス期(遠洋への航海技術・文芸復興・地動説により大地が地球となった)といえそうではある。
この時期を端緒として、教会や王権といった公権力といえども人権や真理を軽々しく踏みにじることには抵抗することが少しずつ認められてきたのだと思う。

そのルネサンス期を評して、「まるで眼鏡を手に入れたよう」(こちら過去記事)という表現もある。
多くの画家は絵画技法の習得や習熟に何年もかかり、技巧に磨きがかかって匠の域に達する頃には老眼や白内障となって写実能力が低下するものだった。 それがルネサンス期のメガネの出現によって活躍可能な年限が大幅に伸び、立体的・写実的絵画技法が花開いたという認識から生まれた言葉だという。

近代的芸術の原動力として欠かせなかったのが、老成した画力と、精細に世界を認識させるメガネの力だという視点が印象的でよくおぼえている。

自分の力がどのように伝わり、どれだけ関与し、どのように結果に寄与したか。 それを正しく妥当な状態にし続けてこそ、フィードバックは適切に働く。 匠の技は自分の指先が何をどれだけ生み出しているか正確に認識できてこそのものなのだろう。
自分の指先のさらに先にある筆先の感覚までも掌握できる精進と、その筆先が描き出した色合いや筆致を正確無比に捉えられてこそ名画が生まれるというわけだ。

思えば、優れた名宰相や名為政者、カリスマ的な経営者などの手腕にも似た面があるだろう。
自分の理念や理想を相手に解りやすく話して聞かせ伝えきる。 それを相手がどのような立場であろうとも飽くことなく繰り返す。 そのような熱情が尽きることない様子は殉教者のような強烈さ。
そういう情熱の影にはかなり強烈に「達成感の渇望」──つまりは「自分の理念で世界を仕切りたい」という欲求──があるのかも知れない。 いや、そうでなくては純粋な理想や理念とはいえない。 むしろ、そうであるからこそ相手を感化し得て、共感を獲得できるのだろう。


よき仕切りたがり屋というものがあるとしたら、その眼には曇りのない眼鏡が必要なのだと思う。
問題は、曇りのない眼鏡と、二枚重ねのない舌の持ち主で、しかも無私の情熱で仕切りたがるような人物は、大抵が憎まれるか煙たがられるかで人々の支持を得にくい。 こう推測できる。
人心に対して操作的でない、そしてまっすぐで歪みのない視線を感じられる人物に対して、きちんと支持できるようになりたいと思う。

刮目して見る。 そして凝視してみる。 最後に眼鏡を外して遠ざけて見る。 そうして少しは時間を費やすことで、私のようなあきめくら(昔からすぐ近くにある探し物を見つけられない私は、親からよくこう呼ばれたものだった)にはちょうどよい加減なのだろうと思う。

即断も即決も出来ない代わりに、結論が熟れ落ちるのを待つことができるようになること。

そういう「仕切り方」にだって、満足感も達成感もあるのかもしれないのだ。
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by bucmacoto | 2009-08-03 22:01 |   pre/pro | Trackback | Comments(0)
感謝を支えるココロ要素
2009年 04月 18日
感謝という感情は、とても脆(もろ)くて壊れやすい。

その様(さま)は、固い感情(怒りが凝り固まっての→恨み / 呪いを重ねた挙句の→呪念)の対極にあるように思われる。

謝意にはふたつの意味がある。

 ありがとう という意味での、他人へ捧げる気持ち
 ご免なさい という感覚での、自分を縮ませる気持ち

このふたつの感情はどちらも、他人(相手)を自分より高い位置に配置する感覚に支えられている。 いわゆる宗教心にみられるような心構え ── 無条件に神は人間の上位に存在するものとして受け入れる心理 ── がない限り、感謝の持続というのは難しい。


苦難や危機を救ってくれた(他者の)行為に対して沸き起こる気持ちは感謝であり、苦難や危機を招いた(自分の)行為に対して湧き上がる気持ちは謝罪である。 そして、このふたつの感情は言葉の類似を超えてかなり相似な感情だといえるのではないだろうか。
 ちなみに、他者への行為に対して負の評価(そりゃあないぜよ)を感じ取ると見事に感謝の念は相殺されるし、自分の行為が相手に利を与えた(私のおかげで助かっただろう)と認識すると自己の罪悪感は減殺される。

この関係は、こころの中では算術的に行われやすいものなので、いわゆる極道(というかヤクザやイカサマ師)はその部分を大袈裟に表現することで相手の心情を揺らし(扁桃体の三情動=不安・恐怖・攻撃 > 参考記事)、その動揺に乗じて利益を得ます。 その意味では亡羊とした相手や決して怒りもしなければ恐れもしない相手はいわゆる「つけ込みにくい相手」になるように思えます。

ところが、実は、口の達者な人(一般に知能が低くはない)の一部に.そのヤクザまがいの手法を多用する人間性を感じ取ることがあります。

 (自分の不利益を強調する)愚痴や(相手の理不尽さを誇張する)悪口

  |  愚痴・悪口・陰口

このような手法で得られる見せ掛けの安心感(他人からの羨望を回避したり、自分への同情を誘うという計算式で為されやすい)というのは、自分のこころの中に本来は芽生えて成長してゆくはずの感謝の気持ち(こちらは本物の安心感に裏付けられて育ってゆく)を刈り取ってしまいやすい性質があるから、そのような手法の乱用は薬物(に見せかけた毒物)依存の危険が伴います。 そういう意味でヤクザっぽい手法なのです。


ということで(ちょっと強引か?)、見せ掛け(つくりものだとかハリボテ)ではない本物の感謝というものを支える心の要素は、単純にピンポイントで定義するならば次のようになる。

扁桃体(Amygdaloid body : 大脳辺縁系に属し情動の中枢)を過剰に刺激する成分を最小限度しか含まずに、継続して循環する認知メカニズムが支える謙り(他者を優先させてもよいと思える関係性の認識と配置)を阻害しない環境




ところで、「扁桃体」って単語は一般に辞書登録されていないからだろう。 検索エンジンで検索しようとしたら私も失念していて、「偏桃体」やら「偏頭体」やらで結構ヒットした(笑)

専門家っぽい人も同じミスをしているのは、以前の過去記事にしたように「確率が高い(低い)」を「確立」と書き損ねているのと同じだ。

かつて、ソクラテスが「文字の習得に注力し過ぎては、哲学思考をする能力を損なうのではないか」と心配したという故事を目にした。
さしずめ現代なら、「パソコンやWebに頼りすぎては、本当の知識や思考をする能力が失われてしまうのではないか」という心配に該当するのだろう。 と続けていた。

こころなんて道具(言語やメモリ手段)でありようを変えてしまうものだと思う ── 例えば楽器の演奏やスポーツなどの身体性を伴う技術では道具はこころの延長とみなせる ── から、新たな道具は新たなこころのありようを徐々に形成してゆくことだろう。
post at 2009.04/18
last edit at 2009.04/19

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by bucmacoto | 2009-04-18 22:18 |   pre/pro | Trackback | Comments(2)
独立(自立)存在と関連(依存)事象
2009年 04月 16日
えぇっっとぉ。。。
(実は書き始める少し前まで「感謝の源泉」というタイトルを考えていた)


私の記事では時々 "イミフメイ" なるタイトルが出現する。
これは、私の頭の中では一定の枠組みの持続が できない(or 困難)であることと関係する。

ひらたくいうなら、
「書いているうちに話がどこか遥か彼方へ飛んでいって収集がつかなくなるから、
 最初にタイトルで基本点確認とおおらかな枠をはめておこう」
という気持ちの表れだ。

この意味では、マニュアル(という名の備忘録 or 指針)を、題字として書いている感覚であるのだ。


日経サイエンス200901表紙に 知能の遺伝子はどこにある という文字が躍っている。
該当記事は、知能遺伝子を探して(英和 「知能遺伝子を探して」)、古くからある 「知能は遺伝に支配されるか、環境に依存するのか」 という命題を皮切りに一卵性双生児(これはいわゆる天然のクローンに該当する=100%の相同遺伝子)による最近の知見を抄録風にまとめているものだ。

 単純にデータから読み取れる結論としては、環境よりも遺伝のほうがより支配的という。
 この(中間的な)結論自体はかなり前から出ている様子だったと思う。

 たとえば、統合失調症(旧名:精神分裂病)の同一遺伝子な双子間の一致率は50%に過ぎないという。 ルーレットの赤黒で賭けた時の正答確率と同じだ。(それでも兄弟間や二卵性児の一致率15%程度よりはかなり高い)
 それに対して、知能の一致率は70%にも達するという。

ところで、いまここまで「知能」という言葉を慣用的かつ明快な言葉のように使ってきたが、実のところ何が「知能」であるのかということはあまり明快な定義が与えられてはいないらしい。
どれくらい曖昧かというと.このような話があるほどだ。

かつて2500年も前に「原子」の存在が哲学者によって仮定されたものの、その本当の姿が明確になったのは19世紀に入ってから(しかも当時は間接的な証拠)だし、より直接的な原子モデルとなると20世紀になってから洗練されたのであるし、内部構造にいたっては21世紀のノーベル賞の対象となるほど、ごく最近になって確からしくなった。 それでも分からないなりに「原子」という言葉は存在し続けた。

おそらく「知能」についてわれわれが知りえていることは、19世紀以前の「原子」についてと同じ程度であるという話である。

一応、辞書にもある定義は こう


説明する言葉のつながりで、基本形となるのはトートロジー(同義反復)だろう。
これは、「同じ」であることを伝える情報で構成される。
数学の基本的な証明テクニックと同じものだ。

そしてそれを補完したり対比として使用されるのは、パラドクス(矛盾)やオキシモロン(撞着語法)となるだろう。 いわゆる「違い」を基にしたわかり方だ。
 言葉の力による情報処理は、修辞技法の力に頼るケースが多いように思う。

水は知っているが油を知らない人への説明として、
 ・水のように流れますし、決まった形はありません。
 ・きれいなものは、透明です。
 ・きれいなものでも、色がついている場合もあります。
 ・水のように火を消しません。 むしろ、火の勢いを増します。
 ・純粋な水ににおいはなく、純粋な油には普通、においを感じます。
のような説明が可能だろう。 これは、前半は順接的な説明で、後半になると対比的な説明だ。


古典的な命題の探求方法として、対話によるものがある。
テーゼ(正論・普遍的な説)に対して、アンチテーゼ(反論・逆説)をたてて、互いの認識を取り込む形でより正しい(あいまいな言い方だが、より深い とか より抽象的で高次な意味で正しい などとされる)ものになってゆくという、近代の民主主義的な意思決定を支える思考の枠組みだ。

実のところ、思考とはこのような 「基本形~対極・相反・相補」を行きつ戻りつすることに他ならないという気がしている。
そしてこのような形式での「思考」ならば、言語に頼らなくても情報を処理できると感じている。

光が満ちて、影がある → なればそこに何かしら光を遮る「存在」がある。
 これは絵画的な「思考」であろう。 影によって絵を描いたり奥行きも出すことができる。

影の薄い存在=影をつくらない存在 → 「変えない」という存在!
 これはいわゆる うそのない(正しい)という概念そのものにつながる。
 誇張もなく、隠匿も捏造もない、矮小化もなければ、前後(因果)の入れ替えもない。


正しさ という価値は、変えないという 変わらないという その点にこそあるのだろう。
 貴金属が永遠とかいう謳い文句で重宝がられるのも、ひとえにその安定性=不変性ゆえだ。


昨日、自宅で図表の退屈極まりないスキャン作業をこなしながら、あわせて読みたいかからWebサーフしていたら、目に留まった記事(というかブログ)があった。

 『言論の質』という曖昧な言葉に惑わされない為の信念*ホームページを作る人のネタ帳


ところで、情報には量と質とがある。 のだが、何が「量」で何を「質」と称すのだろうか?

実は単純に情報量の大小を定める指標がある。 それはコムツカシク追えばエントロピーということになるのだが、直感的に捉えるなら「びっくり度」だ。

ここに、質は同じ(仮に50%正しいとする)な記述がふたつあるとする。

 一つ目の記述
 「馬券を買い続ければ、非常に長期にわたった平均では、投入金額の75%が手元に残る」

 二つ目の記述
 「枠連で 1-1 2-2 3-3 4-4 ・・・ 同枠買いを繰り返すと、勝ち抜けるチャンスは増す」

この二つの情報量は、後者のほうが大きいとされる。
この二つでは微妙すぎて違いがわからないかも知れない。
そこでもっとより極端な対比で示すと次のような比較となる。

 1) 変質者が出没しております。 夕暮れから夜間の外出時には防犯グッズを忘れずに。
 2) 全裸となる変質女が出没中です。 午後20:59分の西方での遭遇確率は50%以上。

つまり・・・より「珍しい」出来事を記述しているならば、その記述は「情報量が多い」とされるわけですね。 数学的・情報理論的には。
「犬が人間に噛み付いてもニュースにならないが、人間が犬に噛み付けば立派なニュースになる」 という言葉は、この関係性を表現しているともいえるのかもしれません。


さて、正しい情報 というものを考えるときに、間違った情報(いわゆるノイズ)が皆無である状態を考えてみましょう。
 信号とノイズのレベル(音量・声量)が同じならば、何が信号で何がノイズなのか判別することは非常に困難となります。 それに対し、元の信号にノイズが皆無であるならば信号をどれほど増幅しようがノイズの増大はありません。 そしてそのような理想的な清らかで正しい情報のみが流通する場面というのは、学校などの特殊な環境を除き ほぼ存在しない といえるでしょう。

そのときに、威力を発揮するのが 「情報の復元能力=規格化された情報形態との照合」です。

よくアナログ信号は「コピーを重ねると劣化する」と言われるのに、デジタルデータは「コピーによって劣化しない」と言われています。

これは、アナログ信号というものが、
 100%の出力 → 80%で受信入力 → 63%で出力送信 → 50%で受信 → 40%で送信 ・・・
といったふうに徐々にレベルが低下すると、それを忠実になぞるのに対して、

デジタル信号の伝達経路では復元(規格化されたレベルしか認めない=量子的にふるまう)というプロセスが必然的に入らざるを得ないからです。
 100%の出力 → 入力値が50%以上だから100%とみなす → 100%で再出力 → ・・・
というように予め決められた規格の値しか扱わない ── だから100%か0%(all or nothing)という応答を行う ── というのが特徴になっています。


離散的な応答というと、人間の応答形態ならば「紋切り型」となるのでしょうか。。。

外乱の影響を受けやすい、関係に引きずられやすい応答性は、いわゆる「人間臭い」と表現されることが多いことではあります。
そして同時にそれは、「血縁や感情や賄賂や色仕掛けや恫喝」に影響されて、人事や評価をしてしまうような「愚かしさ」と表裏一体な現象でもあります。
このような「搦め(からめ)手」に影響されない人というのは、いわゆる「立派な人」であり努力を重ね精進を欠かさない人なのに、軽んじられることがあるのも人間世界の愚かしさなのかもしれません。 いわば、身内であっても(真犯人ならば)逮捕する警官や、断罪を厭わない裁判官などです。(現実には制度上そのような巡り合わせは回避されている)


原子の内部エネルギー準位など、非常にミクロな世界では現実の物質も「離散的」に振舞います。 とびとびの値しか取れない構造を量子化された構造といいます。 これは原子が1個2個というふうに整数でしかありえないように、電子の軌道なども 離散的な値しか取れないというものです。(この空白=ギャップは、電子のような物質は移動するときに波としても振舞う性質に起因します。 原子核の周囲を巡る電子は、その波動の整数倍の波長軌道上出なければ波の性質により打ち消しあって消えてしまうのです。 固有波長の整数倍であれば、定常波として安定して存在できるのです。)


影響されない = 独立・自立した存在 それはあたかも粒子のような振る舞いをします。
(フェルミ粒子は排他的に振舞う = 同じエネルギーには 反転した粒子しか存在しえない)

影響を受けやすい = 関係性に依存した振る舞いは 波のように不安定でありながら、障害を乗り越えすり抜けてゆく強かさを発揮します。 かのダーウィンが 「強いから生き残れたのではない。変化したから生き残ったのだ。」と評した強さそのものにも思えます。


淘汰を潜り抜け生き延びた者を適者と呼ぶのでしょうか。

ならば「適者」とは、正しかった者でしょうか。 外力に適合し加減がよかった者でしょうか。 それとも異性を引き付け子孫を残すことに長けた「美しさ」の演出力が「適者」の絶対条件なのでしょうか。


知能とは賢さであっても、賢(さか)しさではあってほしくないという思いが私にはあります。

 過去記事 : 北の夢想科学小説 : まいしゃ(昧者)

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by bucmacoto | 2009-04-16 00:20 |   pre/pro | Trackback | Comments(0)
安全なる毒薬
2009年 02月 01日
 酒は百薬の長

幾多の酒豪からこのセリフを耳にしたことだろう。
酒精に交わる文豪の文として目に飛び込んできたことだろう。

凝り固まった身と心をほぐし、血行を改善しストレスの解消になり、人間関係のリフレッシュと潤滑剤になるというわけだ。


 薬物は須(すべか)らく毒物

霊験鮮(あらた)かなる薬効は、許容量を超えた途端に毒薬となり、危険を無視し急造の尊大さで身を滅ぼすことにもなる。
 仏教五戒のひとつ 不飲酒戒(ふおんじゅかい) - 酒を飲んではいけない。



飲んだら乗るなと言われながら、完全には無くならないのが飲酒事故。

<福岡3児死亡>夫か子供か、恐ろしい選択…公判で母親陳述 | エキサイトニュース
2009年1月30日 15時03分 ( 2009年1月30日 16時00分更新 )
<福岡3児死亡>夫か子供か、恐ろしい選択…公判で母親陳述
 福岡市の3児死亡事故で危険運転致死傷罪などに問われ、1審・福岡地裁で業務上過失致死傷罪などが適用され懲役7年6月(求刑・懲役25年)を言い渡された元市職員、今林大被告(24)の控訴審第4回公判が30日、福岡高裁(陶山博生裁判長)であった。両親が意見陳述し、母親が「2人の子供を抱えながら海中に沈んでいく夫と、車中に残された子供のどちらかという、恐ろしい選択に直面した」などと、事故直後の状況を生々しく語った。

 両親は大上哲央(あきお)さん(35)とかおりさん(32)。2人は「過失ではなく殺人行為そのものだ」などと、量刑が重い危険運転致死傷罪の適用を求めた。

 今林被告側が哲央さんの居眠り運転などを主張していることに対して、哲央さんは「断じてそのようなことはなく、その主張のせいで心ない人から中傷を受けた」と訴えた。国内での平穏な生活を奪われた結果、現在は海外で暮らしていることを明かし「私たちが求めることは、あなたが、犯した罪を認めることです」と語った。

 かおりさんは「(事故当時は)夫婦で七五三の話をしていた」と哲央さんの居眠り運転を否定。救出時については、車中に残った子供の救出をあきらめざるを得なかった当時の心境を、涙を流しながら振り返った。3児の生前の姿を子守歌を交えながら語ると、廷内からは傍聴者のすすり泣く声も聞こえた。

 意見陳述後、検察側も最終弁論し「1審判決の脇見運転には事実誤認がある」などと、量刑が重い危険運転致死傷罪の適用を求めた。【松本光央】


 この話題は感心が高いらしくかなりヒットした goo検索(Green Label)



酒を飲んだ人間が原因となって殺人に近い事故に至る場合もあれば、酒を飲んだ人間が事故死に至る場合もある。

LIM's official blog : 新大久保 列車事故の真実(2001年1月26日)

自分が原因ではなくとも、死亡事故の近くに居合わせたなら痛みを感じてしまうだろう。 人の死には、それだけの心理的衝撃があるだろう。

レールの上から逃げ出すことができず、制動距離も長い鉄道では衝突事故を防ぐためのさまざまな工夫が積み重ねられてきた。
 閉塞 (鉄道) - Wikipedia

機関車輌運転手の目に映った線路上の人間の顔・・・それは充分にトラウマとなる事象だと思う。 だからこそホームの安全柵や軌道のカプセル化が推進されてきた。


生体認証(指紋や虹彩などの身体特徴によって本人であるかを識別)の技術は現代では身近になってきた。
健康体認証(血中アルコール濃度や意識混濁レベルの判定による交通機関操縦制限)というのも、あながち夢物語でなくなる日が近いのかもしれない。

オーウェンの映画1986のような超管理社会に対する恐怖は誰にもあるものだ。
かつて大平内閣が消費税導入と同時に目指したグリーン納税者制度が実現していたら、不毛な税逃れや悪質な脱税はかなり減っていただろうか。。それとも国税局職員が社会保険庁のような私的犯罪じみた端末操作によって国庫金が失われただろうか。

おそらく、車内制御にLANネットワークが普通に組み込まれているような現代の車輌でならば、航空機のフライトレコーダのような あるいはトラックのタコメータのような走行記録を残す機構は容易に作りこめることだろう。

個人情報を守るセキュアさと、嘘や誤認を排除するセキュアさと、いずれは天秤にかけてしくみを考えるほうがより安全な社会を形成できることになるのかもしれない。

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by bucmacoto | 2009-02-01 05:50 |   pre/pro | Trackback | Comments(4)