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いのちの重さと軽さ
2008年 02月 06日
歴史とは、過去からの手紙なのだろうと思います。
それは時に戒めであり、時には応援であることでしょう。
以前、めぐる時 流れるときで引用したマンスフィールド氏の言葉を借りるなら、「『歴史は繰り返す』 というのは警句の意味でもある。 歴史に学ばなければ、『歴史が教えに来る』 のだ。」 という意味を含めてそうであるように思うのです。

過去の歴史的遺産の数々は、今の私たちとは異なる価値観を有した世界がかつて存在していたことを赤裸々に教えてくれます。
 有力者の死に殉じて膨大な数の人と家畜が生贄さながらに副葬されたこと。
 武運をあるいは災害を避けるために、人柱となった者等が存在したこと。
 刑罰は罪の軽重によるよりも、(制裁と抑止力を高めるために)より残酷であった地域・時代もあること。 カオスを分け立て、天晴れぬれば


人間の価値観として、誠実や 信頼や 弱者へのいたわり など、さまざまなものが普遍的な価値として語られています。 それでは、その最も根源的な価値判断の尺度は何かと考えた時に、私には『人のいのち』という尺度が共通で普遍的なものとして採用できるのだという仮説を持っています。

人の命は地球より重いわけはない(ちょっと触れた過去記事)けれど、自分の命・親の命・子の命、どれもいのちの重さを感じ取るには充分な重量感を示しています。
QOL(生命・生活の質)という考え方も、無傷な生命状態(健康)という仮定の存在を100%として、その低下を防ぐ ないしは 低下を一過性に終結させる、という考え方と相同なものと考えられるでしょう。 一時の低下は病(やまい)、治らない低下状態は後遺障害か老化。という発想です。

さて、この人の命の重さを、(定量化にはそぐわないけれど定性的に)1.00の価値であるとして、人間と人間の間に軽重はつけられるものなのでしょうか?

かつての副葬や人柱は、王や権力者の命をそれに使える者たちの命よりも重いとみなしていたことと想像できます。
近代とされる日本の明治期の天皇崩御の際にも、殉死が見られています。

それでも、現代の少なくとも先の大戦後の日本では、身分や経済力や影響力がいのちの重さとは比例しないのが前提となっているようです。
例外を上げるなら、重罪を犯した者への刑罰 = 遺族への同情と見せしめ・犯罪抑止 = としての死刑を、いのちの重さと見合うだけの負の価値の清算手段として、容認しているのでしょうか。

戦争犯罪人が死を以って断罪されたように、他者の死を招くものは罪を問われるのです。

人間のいのちについて考えるときに、進化論者の私はどうしても動物の命というものを考えてしまいます。
非常に長い時間経過の果てではありますが、人間もかつては人間とは呼べないくらいの(現代で言えば猿なみ)存在であったはずです。 その頃の前人間的ないのちは、今の人間の命と等価なものなのでしょうか。 あるいはより軽いものなのでしょうか。

この問いに、私は 動物の命と 人間のいのちとは等しくはないという解しか思い浮かびません。
医学の研究用の実験動物しかり。(人間を使ったら人体実験となり認められない)
食料としての家畜しかり。 (毛皮や象牙や鯨油だけを目的の殺生は、あまり好きではないですけどね)

そして、年間に十万人オーダーともいわれる前人的存在(11週目以前の胎児)が、中絶されていることを思うなら、動物としての生命は 人のいのちとは異なるものとして考えなければ一貫性を欠いてしまうように思うのです。
(※ 個体発生は系統発生を模倣する という前提が私にはありますので、胎児は人間に進化する前の存在とみなすのです。 ただし、確実に人間になる存在ではあります。)


かつて暴力革命を、「資本家による労働者階級への搾取からの開放」をスローガンにして正当化していた時代が(少なくとも一部には)ありました。
大義の前には小さな情は捨てよと言う その発想は、かつての軍国主義・全体主義・国家主義・教義至上主義などにも共通するように思います。

人類普遍の共通する価値観の尺度として、人のいのちを一義に捉えるなら、そのような(正義の前には人命の犠牲は軽視できるかのような)考え方には無理があるでしょう。

・・・ 長すぎになってきたので中略 ・・・

歴史が過去からの手紙であり、過去から未来への贈りものであるならば、たとえそれが目を背けたくなるような残酷さを伴っていたとしても、正視することこそが過去に(ある意味では)犠牲となった者へ私たちが示すことのできる誠実さであるのだと言い換えることもできます。 → 「 歴史に学ばなければ、『歴史が教えに来る』 のだ。」

世界には同じ時代を生きていながら、飢えと貧困と争いとにさいなまれ続けていた過去の私たちと同じような困難さを、今まさに受けている人もいるのだということに時に気づかされます。

 自戒録 by hito von Frizburg : 【ちょっと】 真面目な話 【聞いてよ】

アート(芸術)とテクノロジー(技術)は、同根であると私は考えています。
(ついでに言えば、政治ってやつは 人間の生活を均衡させるテクノロジーかも…と)

かつて政治の手段に暴力が重用されていたように、持たざるものの貧困からの脱出を図る政治手段が暴力革命であったように、命を見せ物にしてでも耳目を集めて何かを訴求するのは 言下に否定できない気もするのです。 (あまり高級な手段とは言えないのは無論のことですけどね)

その(自称かしら?)アーティスト氏が、もしもその動物たちの亡骸(なきがら)を粗末にすることなく丁重に扱っているのならば、私はその人に医学部で実験動物を弔ったりする人々と同様な尊敬の念をもってもよいと思ったのです。

(別窓開いた)紹介リンク先から辿ると、このアーティストの活動を抑止する署名サイトにも行きつくことができます。
私はこの署名運動が政府系シンパによる(いわば)国家の恥を隠す意図でないのならば、ささやかですが署名をしたいと思います。 ほんとうに、こっそりと。


追記:この問題は昨年10月以降に問題となっているようで、検索ではかなりの数がヒットします。 madness or artist ? 実際にどちらであるのでしょうね。。
 かの氏名で検索 → Guillermo Habacuc Vargas
  (2008.2/7現在、全サイト 8460 Hit 日本語サイト124ヒット)
post at 2008.02/06
last edit and change category at 2008.02/07






私に天邪鬼の内面が潜んでいるからなのか、あるいは僭主じみた相手に痛い思いを重ねた故なのか(おそらく前者だろう)、ヒトラーとスターリンが大嫌いである。
鎮魂ということば
戦時下の人間を描いた映画
  • 情報操作
  • 自己神格化

この要素を感じ取ると途端に警戒し慎重になる。

自己というのは、よく考えれば考えるほどに『純粋な自己』とは何かわからなくなる。
まるでそれは夢のように儚いものに思えてくる。

私の爪は、ワタシの一部ではあるけれど、爪切りに切り取られた瞬間に、元ワタシであり今はもうごみのひとかけらになっている。
お腹の中の今朝いただいたご飯の一部は、紛れもなく明日の私の一部になるに違いないのに、大部分は明日の排泄でワタシとは呼びたくもない汚物として流される。
私の頭の上の髪型は、外から見れば私の一部。 けれどその髪型を整えてくれたのは理容師さん。 着ている服を選んだのは私であり好みが反映されてもいるけれど、その服は私が縫製したものではないし自分で繕った道具だって私とは関係のないものだ(私はその道具に触れて一時的に操作しただけのこと)。
一体化して乗りこなしていた(という感覚があった)バイクもクルマもチャリンコも、止めて降りれば愛着は残れど自分ではない。 靴も靴下も同じようなものだ。(愛着が薄いだけ、さらに自己とは言い難い)

自分の赤ちゃん、娘・息子。
これらは自分の分身であって、愛着のあるものだ。 断たれた爪や肛門からの排泄物とはまったく違った存在に思える。 子供は、半ば 生きわかれた我が身 そのものであるという感覚が伴うような気がする。
そしてその感覚は、深い愛情と愛着の源になる一方で、時には決して(自己と無関係の者として)消すことが出来ないゆえの嫌悪感や憎悪にもつながる。

動物はペットとして飼われていることが都市生活では多い。
犬より遅く家畜化されたと言われる猫ですら、紀元前3000年頃のエジプトともそれ以前のメソポタミアとも、飼い猫の起源を遡(さかのぼ)ることができる。
そして、食肉として飼育される、鶏(現代はほとんど工場みたいに製作されるブロイラー)・豚・牛、これらはどれも人間の食餌となるために繁殖させられ屠殺(とさつ)され皮を剥がれ骨を抜かれ解体される。

昔、まだ子供だった頃に、両親が仲人した新婚さんからのお中元(お歳暮だったような・・)に、牛(豚だったか?)半頭をまるまる頂戴したことがあった。 両親は「こんなもの贈られてもねぇ。。」と困惑しながら、一日がかりで解体していた光景が記憶に残っている。
知識として、『食べ物は生き物だ』と知っていたが、原型から徐々に骸骨となってゆく様子をつぶさに見られたことは、食物に対する私の視点に影響を残しているかもしれない。

いのちは貴い。 そう言いながら人間は、いのちを食して生きている。
肉(魚)を口にしないと言うベジタリアンや厳格な仏教徒であっても、口に入れているのは動かない(もしくはゆっくりとしか動けない)と言うだけで、他の生命体であることでは同様であるともいえる。
もしも・・・(今の地球上には存在しないが)知的植物が存在して、稲作農家の所業を目にしたらなんと言うだろうか。。
「蒔いた種を育てながら、育ちの悪い子を引き抜いて乾き殺すんですって。 そして害虫から守るためだと言って毒薬を浴びせることもあるそうよ。 育ちをよくするためにお便ならまだしも、工場で作られる肥料という薬品漬けにされて。 そして実った子達は残らずもぎとられて、皮をむかれて・・・それも籾(もみ)殻だけじゃないのよぉ! 精米とかいって玄米の栄養たっぷりな下着までむしり取られてねぇ。 そしてひん剥けた白い柔肌を力ずくでごしごしこすり落とされて、最後は熱湯でかまゆで! 本当にベジタリアンって残酷よねぇ。。」
だとか、言うかもしれない。。。 まぁ、言うはずもないが(笑)

ともあれ、自分に近いものにより共感しやすく愛情を持ちやすい傾向はあるだろう。
自分の子、自分の親、自分の隣人、自分の同胞、自分と同じ信条、自分と同じ宗派・・・なんであれ自分を鏡にして相手の心情を読み取ろうとする。
特集:ミラーニューロン

そしてその相手の意図のシミュレーション能力(基準)が異なる場合に、まったく相手の意図を理解できなかったり、高邁な態度を傲慢と感じ取ったりする。
  人類の教師 の史的顛末(別窓) → ソクラテスとプラトン

個人的にはプラトン思想にはあまり同意できない。 いわゆる情報操作すれすれの美化や誇張・強調(デフォルメに近い変形表現)が多用されている感覚があるからだ。 それでも、自らの師が理不尽な死を迎えさせられてしまった悲しみと悔しさをあのように見事に昇華したことは、心から共鳴できることも事実である。


冤罪は、歴史上に数多い。(と思う)

卑近な例でも、松本サリン事件での近隣に住む一風変わった人間(法廷での理路整然とした態度からもいわゆるおかしな人などではないことは判る)に向けられた嫌疑の目などは、(これまで数々の冤罪を起こす原因視されやすい)警察が訴追困難・立件不能としたにも関わらず、マスコミ報道などから間接的に情報に接した人々の多くが【ほぼ間違いない(おそらく犯人だ)】という判断を一時的にせよもったものだ。
もしも地下鉄サリン事件が、弁護士殺害事件が、あのように明白な経緯を示さなければ彼はいまでも無実なままに、隣人や友人や親類から嫌疑の目で見られ続けていただろう。


よい態度というのは、基準によって正反対に振れることがままあります。

自分の子弟を、よその人間よりも信用し抜く。
 冤罪の被疑者の親は、そうでなければ無実の子は浮かばれないでしょう。
 会社の人事担当や考査担当者がそうであっては、組織は腐るでしょう。
自分と他人。 相手と私。 それは固定された軽重であってはいけないし、同時に変わらない安定性も保っていなければ環境に振り回されるのですからね。


この記事をUP後に、かのアーチスト氏(僭称か詐称か自称かは棚上げる)が、動物(犬)の死を展示した作品を、忍び込んだ家の番犬に噛み殺された泥棒に捧げると言っているらしいと知った。 日本語サイトで別窓です → キャンプ猫GAVI: 芸術って?

私の最初の気持ちは、「犯罪者に捧げるゲージュツだぁっ?? やっぱイカレてら! 署名しちゃおうっ」という反応であった。
そして一夜明けてみると、「貧しさの中では、ドロボーがほとんど唯一の確実に稼げる仕事である場合だってある。 それは貧しい親兄弟の助けとなりたくて身を売ったり異国へ出稼ぎにゆく若い女性にも同情の余地があるのと同様だ。 ねずみ小僧のような義賊ではなかったにせよ、かのアーティスト(自称)にとっては【犯罪を犯すほどに貧困を放置して、豪邸に住まう者の『財産』を守るために動物(犬)に『人間』を殺すのを許すのがお前たちの『善良さ』なのさ】というような論旨なのだとも受け取れるな。。。」 と思ってしまったのでした。

危険か安全か、不確かである場合に、多くの動物(より広く生物か?)は 【すくみ】の反応を示す。 じっとして、動かずに、敵か餌かを見極めようと感覚を欹(そばだ)てる。 それはその不確かさが確かになった瞬間に(あるいは見極めつかぬと覚るまでか)、闘争か逃避か(Fight or Flight)の反応を抑え込むのだ。

そうだ、私は今しばらくはすくんでいたっていいのだ。
死んだ振りをしながら、叩くべき相手か、見守るべき相手か、無視してしまったほうが安全な相手なのか、逃げず臆せず(日和見と非難されようと)眺めてみるのも、いい。


歴史に学ぶことは、自分から求めて進んでやってこそ意味がある。
押し付けられた歴史に無批判に縛られるなんて、それこそ危ないことだと歴史は教える。
自分とは異なる世界からもたらされた報に接したなら、学べることは学び、反面教師としたほうがよいものは対岸の火事にして 他山の石として 自らの戒めとして眺めおいてよいのだ。

何にでも自分が関係あることだと思い込むのは容易いから。
それは、何もかも自分とは無関係と思い込むくらいに危険だから。
だから、潔い傍観者であっても(それは最善ではないかもしれないが)、それはそれでアリなこととして、自分に許してしまっても悪くはないだろう。


一応、私は、猫も犬も好きです。 かなり好かれるクチです。
北の夢想科学小説 : 空白の場
いちど30kgクラスの大型犬のいる廃品回収業者宅(古いバスが住居)に出向いたときに、そこの犬の腹を撫でていたら、「こらぁ! おまえそれじゃ役に立たんだろっ!」 と飼い主の怒声を浴びさせてしまったことがありました ^^;
by bucmacoto | 2008-02-06 00:58 | particle
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