2007年 04月 15日
上下の起源 前後の終焉 の続きなのだが、おそらく上手な伝達ができないような気がしています。(最初から弱気 w)
卵が先か鶏が先か。 この命題は、現代的には次のように置き換えられるでしょう。 遺伝子が先か成体が先か。 DNAやRNA,あるいは核酸 私は同意ではありませんが、そのような 「卵(生命の設計図)が先」 であるという考えはよく理解できます。 先という言葉について、先の文では次の両意を認めました。 ・ 進む方向(赤ちゃんのハイハイ方向が原点)であり、地球(大地)の中心から離れる方向。 ・ 時間的に早い(順序が先にくる)方で、因に近い方として生む側(河川イメージなら上流) ヒトの成長過程においては、この二要素が混然となるのが必須なので、以下の刷り込みがなされるように思うのです。 それは 進む方向 = 先 = 見上げる方向 = 大人 = 偉い(上位) というものです。 先ほどのどちらが先か? の論に対する私の答えは、どちらも同じ(渾然一体=完全に等価)というものです。 いいわけでもなく言葉遊びでもなく、脳内概念の帰結としてはそうなのです。 いのち と こころ ← このふたつは同根の概念であると思います。(だからこそ神話的理解がかつては有効に機能した) 宇宙 と こころ ← このふたつは互いに反映(鏡像関係)するものでしょう。 ※ これはオカルト的な解釈を意味lしません。 外界(宇宙)をどう捉えるかという生命のあり方次第で宇宙は異なってしまう ── 粘菌の感覚器に映る宇宙と 鳥のような鮮やかな色彩世界とでは おのずと異なる ── という意味。 さらに、地球の生命活動によって(水・酸素・炭素循環といった)現在の地球環境が支えられ、そして形づくられてきたように生命の活動のあり方次第で惑星の様子(局所的な宇宙の様相)は変わってしまうのだという意味合いです。 私は理系人間をヒイキしたい人間なので 文系タイプには辛い表現を用いるのですが、「設計図がないとモノはできない」 とか 「はじめに言葉ありき」 という考え方には、すぐには同意できないほうなのです。 というか、いつまでも同意しないでしょうね。。。放置に近い容認姿勢がせいぜい。 幼児の発達をサルと人間と一緒に育ててみたところで、決してサルが人間の言葉を喋ったりテレビドラマに涙したりはしないと思います。(たぶん。。。ですけど ^^;) 家族同様に育てられたペットが、家族の一員として振舞う(家庭内で人間並みの序列を求める)という話は耳にしますが、遺伝子・DNAというひな型が存在しなければ、(模倣だけでは)その気になることはあっても本物にはなれないのです。 けれども夢くらいは 人間と似たものを思い描くのかも知れないと考えると興味深いですね。 人間は社会的生物であると言われます。 単独ではなし得ない目的のために組織をつくり、その組織を維持し発展させ 組織の存続自体をいつの間にか目的と化しながら、既存の組織力を流用しつつ新たなフィールドへとその手法を適用しようとします。 その過程で、本来の設立趣旨を見失ってしまった組織と言うのは寂しいものだと思います。 まあ、これは人間も同じですけど、組織と言うのはどうも人間の在り方と相似形をなす傾向にあるように思います。 ・・・ とか書くと、『他人は鏡 宇宙も鏡』 説なみに、オカルトチックになってしまうかぁ ^^ 「人はパンのみに生きるにあらず」 これは、(私も知っているくらいだから おそらくは)誰でも知っている聖書の一節ですが、私なりの理解では 「パンは生きる糧(手段) である。 しかし 生きる目的としてしまったなら人生はつまらない」 という意味に捉えています。 よく、「資本主義は利潤追求が目的である」 というような文言を平気で使う人がいますが、私はこういうタイプの人には敬遠策をとるように(最近ですが)なりました。 先の 「パンは糧」 っぽい理解では、利潤というのは 手段でしかないし 結果として得られたとしても、余禄(おまけのご褒美)であると納得するほうが私の好みだからです。 利潤追求・金儲け を目的にしたとしても、それを悪いことだとは思いません。 所詮お金はどこかに使う(再投資)しなければならなくなるものですし、何より 【金儲け主義は悪い】 という説と 【金を儲けないから良い】 という考えとは 裏と表の関係なだけで、どちらも 『他人に強要(押し付け)や錯誤誘導(騙して洗脳)するなら悪い』 のだと。 (これは言い切ります) 病院は患者さんを中心に というスローガンに馴染んで育った私です。 いわば 病院と言う組織にとってその存在目的(=存在意義)は、患者さん というシンプルな理解です。 患者さんを 金儲けの手段にしたり、自己実現(満足感)の手段にしてはならないという強力な洗脳なのですが、これは私のような低機能な脳みその人間にはかなり有効な刷り込みでした。 そういう目的指向の考え方を 「きれいごと」 だとか 「金科玉条」 であるとか 「錦の御旗」 とか 「単なるお題目」 だとかラベリングして、(自分にとっては大切で神聖な)目的を手段に貶めるかのような言説には 。。。 以下 檄文になりそうなので省略 w 目的と手段とは、循環する関係にはあります。 これは一般論として成立します。 この十数年来ポピュラーなモデルは PDCAのサイクルですね。 ※ Plan(計画) → Do(実行)→ Check(照合・間違いさがし) → Action(改善・再実行) システム を プロセス重視で捉えるなら、次のようなフロー理解でもよいしょう。 Input(入力・投入) → Function(関数) → Output(出力・産出)─ ↑└───────── FeedBack(バランス調整) ──────────── ┐ │ ┘ ここで、循環しているならどっちが先だって構わないのでは? というような暴論を吐く人はまさかいないでしょうが、念のために書いておきます。 理由・原因 → 手段 → 目的(これは理由に直結) ここで、手段が中間に存在するわけですが、手段は変動可能・置換えも容認できる要素であると言えます。 対して、理由・原因 は既に起きてしまった出来事であるので、変えてはいけないものです。(時代の変化と共に捉え方や認識が変わることはありますが、意図的に変えてはならないもの) そして、目的は(理由に直結していることからもわかるように)、変わらないようにする。 そのために中間的存在である手段を変更するのを、合理化と(私なら)呼びます。 ・・・ とても大雑把な論(というか、説どまりかなぁ)ですが、上記の視点からすると、健康保険制度や介護保険制度で、見直すならば受益者のサービスについて恒常性を保てるように 患者メリットを評価することが必要になってきます。 ここで第3者機関とかの新たな組織を設置すると、組織(手段)要素ばかりが肥大しますので、 過去の官僚制の良いところ(私心を排した組織主義)と個人主義の長所(使命感や目的指向を原動力としての局所最適達成)を上手に組み合わせる必要があるのでしょう。 自分の職務の範囲を明確に定め、逸脱した影響力を慎み、責務の範囲を全うし、範囲外の問題は担当できる権限や力量のある部署にまわす。 これは組織人の基本姿勢でしょう。 同時にこれは、(健全な意味での)官僚主義にほかなりません。 官僚制度は、まともに機能すると合理的かつ全体最適を達成するほとんど唯一の手段ですが、腐りだすと一度解体したほうがよいところにまで。。。(以下 自粛 ^^;) 公的組織に私心を持ち込まないというのが、近代だと私は定義しています。 無論、封建時代や中世であろうとも 私心を抑えた人事や委譲がなされた例もありますが、多くは世襲・慣例踏襲・権力者の意向で権限が世代交代してゆきました。 封建時代というのを、個人が私的に公的権力を行使できた時代 と捉えるならば、官僚主義が悪いモデルに堕しているかどうかの判断は、(「それは官僚主義だ」とかなじるラベリングではなく) 私的な権限利用や職権の恣意的運用がなされていないかどうかでしょう。 ま、はやい話が、好きや嫌いや気分で判断を変えることを容認するなら、もはや(悪い意味で)個人主義に毒された組織主義(組織利用)がまかり通っているのだといえるでしょう。 ・・・具体的に書いちゃうとですね。。。やっぱやめとこう(笑) ようは、組織の維持や更新は欠かせないものですが、それは手段として欠かせないのであって、決してそれを目的としてはならないのですね。 組織運営の研修という理由で、二年に一度は欧州視察をできるよな制度が 某保険庁でまかり通っていた(それも学歴重視の官僚族ながら高卒で)というよなお話を伺うと、やはり保険料は運用する組織ではなく 健康管理と公平性を担保するために支払われるのが本筋だと強く思った昔のお話でした。 < 書いちゃってるじゃん(笑) かなり荒削りなのだが、以前の投稿も私なりの脳内配置なのだ。 現実が先か ルールが先か 個人的感触では、 官僚制度は透明なルールで 個人主義なら結果の競争で その健全さが担保されるような気がします。 公人たる者はプロセス開示を忌避してはならず 企業人たるものは機密は閉じながらも競争は閉じない それが健全さ維持のための 最低条件かなぁ。。。 隠匿(出し惜しみ)する公務員がいたらその組織は要注意。 談合する企業があるならその業界は要警戒。 どちらも果てのない金食い虫(ムダの温床 私欲への流用)への卵であろう。 < 成虫かも w 現実は目的であって手段ではない そして ルールは手段であって目的としてはならない 夢は脳内にあるもので現実ではない だから 夢は現実を動かす手段(可変要素) 夢を通じて現実は変えられる けれど 夢がなくても現実は移りゆく それだけのこと。 手段がなくなるのは悲しいことだけれど 目的をなくするよりはずっとずっと楽なはず 目的を見つけるより 手段を見つけるほうが より容易なのだから
by bucmacoto
| 2007-04-15 02:24
| duality
|
Comments(0)
|
おきにいりすと
closing / sleeping
イラスト
わるとも
Photo plus α
からだ と こころ
archive in this blog
統計資料・PC史資料など
勝手に応援
machine translation
以前の記事 カテゴリ
タグ
日記録(345)
市内風景(296) 小さな説(255) 写真と画像(217) 詩もどき(180) 回顧(109) おふざけ(94) science(79) 備忘Log(65) &Tips;&code;(62) おはなし(61) 夢想(57) 冬雪景(48) nursery(36) (?_?)(30) star&moon(29) my function & character(29) aha♪ / esprit(28) work_list(22) 食記録(18) 若者への手紙(17) present(13) 一画一句(11) 文・人・理(9) 春花草木(8) 記事ランキング
最新のトラックバック
検索
その他のジャンル
ファン
|
ファン申請 |
||