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internal war
2006年 11月 18日
 いじめの背景や病理性、あるいは社会の縮図であるとか人間関係構築の試練とか、さまざまな見解を目にする。 って,ほとんど偶然に目にするもの以外は読んではいないのですがね。
 虐(いじ)め と書くと、それは苛(いじ)められる側の悲惨さを強調できる。
 誰かが書いていたように、いじめ でも イジメ でも、それはイジメる側と傍観者の共通語であるのかも知れない。

 私の小学校高学年時の担任は、いわゆる熱血教師であった。 本多勝一の著作たち、中でも 「アメリカ合国」 「中国の旅」 といった強烈な政治性を帯びたルポタージュを小学生に紹介するくらいの烈しさだった。
  そういえば小学校の時に この図形の面積を求めよって出題されて、数日考え抜いて 「先生、ここの高さを求められないと出せません」 とたずねたら、三角関数の値を教えてくれたっけ。 (ただいま図形作成中・・・)

 当時はまだ3日に一度、風呂を入るくらいで普通だった時代であるが、中にはさらに貧しい子供もいた。 父親が毎日酒を飲み暴れ、母は逃げ、部屋の敷き物には座ると粘っこさを感じるような汚さで、一週間も風呂に入れないような子もいた。
 当時の小学校ではIQテストもあったが、その結果によってその子は特殊学級(自治体により、養護学級、育成学級、心障学級、障害児学級、実務学級、学習室、総合学級、個別支援学級など、さまざまに呼ばれる)と普通学級とを行きつ戻りつしていた。

 同年代の子供達が集まるとほとんど自然発生的に からかいいさかい は興(おこ)る。 過剰で不安定なストレス(高圧的な環境,いたずらな序列化,うわっ面な規律)は、その種を育ててしまう土壌ではある。 しかしきっかけはむしろ、小さなことだ。 偶発性とそれを面白がる好奇心が発芽点となっていたように思う。

 その子は反抗していじめられたのではない。 泣くことすらほとんどない。 ひたすらに耐えることでしかその子は生きてこられなかったし、生きてゆくすべを知らないのだ。

 担任は、少数民族に対する社会主義国家の姿勢を高く評価していた人でした。 一定の自治権の付与,固有言語の容認,民族文化の保存 などの政策が、彼のモットーと共鳴したのでしょう。
 そのモットーとは、
「ひとりはみんなのために みんなはひとりのために」
この合い言葉が、彼の児童への愛情であり、同時に児童であろうと求めようとした規律でした。

 ここに詳細を書き連ねると、完全に面割れしてしまうので書きませんが、幾度かの学級会(おそらく5時限以上は授業をつぶした)を経て、さらに学芸会でそれを再現上演。 そうして私のクラスではいじめは完全に根絶やしなった。
 ※ 中学になり、"虐め" 再燃もあった。 だが、小学校の頃に同じクラスだった女子が 新たないじめっ子の男の子に、「○○ー、ホントは好きだからからかうんでしょー」 とすぐに声をかけられるようになってから、その合い言葉が流行してから、いじめっ子は手を出せなくなっていった。


 ところで、内ゲバという語をご存知の世代は、このブログを読むような方には多いと思う。
 同じ左翼思想の中で、(外からは窺い知れない)信条の違い,統率者の権力闘争,果ては色恋沙汰までが属するセクト(分派)間(ときに内部)の抗争に発展した。 時には死者をだす(より直接的に揚言するならば、殺し殺される)ことすらあった。
 似たような思想の集団の中に、様々な差異を感じ取り、別種のグループを形成してゆくさまはまるで進化系統樹のようでもある。


 この内ゲバと同じような構造は、いくつかのスケールで存在するように思えるのです。 その想いを、internl war のタイトルにしてみました。
 内ゲバ~内紛(内部紛争)~内戦。。。 悲観的に歴史を眺めるなら、人類の歴史は internal war の歴史ともいえます。 それどころか、民族のあるいは国家の求心力を高め内部の結束を維持しようと、外部への侵略行為を繰り返してきた史実にも思いを馳せるなら、帝国主義や君主国家(これは民族のおさ制度の延長ともみなせる)による弱小隣国併合や少数民族抑圧といった専横制の元凶となったようにも思えます。
 社会というスケールからグループというスケールへと視点を縮小するなら、そこに生じているる内ゲバは、ボス争いでありイジメでありそして家庭内暴力なのでしょう。

 ちょっといいわけしておくと、こういった連続するがスケールの異なる現象をひとまとめに考えることは時に危険でもあります。 その理由:こういった思考方法や説得方法は、カルトや原理主義的なグループが合法的に既存組織形態を切り崩す常套手段であるからです。

 さらに個人の内部(つまり精神世界)にあっても内ゲバが生じている場合があります。 軽いものならば 「迷い」。 重いものや激しいものならば 「悩み」 あるいは 「苦しみ」。 火種を表面上だけ隠されているならば 「抑圧」。 内部対立により精神の分断をきたすなら 「多重人格」。 ※統合失調症の脳内では前頭葉内側(腹側)部位に存在して脳内各所からの情報を一元的に管理するいわゆる”人格の座”に機能障害が生じていると、そうPET研究などの結果から推定されています。

 内部に生じる差異を、穏便に無理することなく、特定の領域にしわ寄せすることなく、分かち合えるということが内ゲバの激化を防ぐ大切なコツなのでしょう。 とはいえ、いつの間にか ───
つまり自然発生的に ─── しわよせがあるのが実情であるだと思います。
 北の夢想科学小説 : しわよせ と 折り目


 先日のことですが、いじめもされた そして いじめもした、そういう方の経験談を聞く機会がありました。
 泣かされて家に帰る日々。 彼女の兄はこういったそうです。
 「やられたままで黙っているな。 やり返せ!」
 彼女は、やられたらやり返していいんだと、そう心に刻んで報復に励んだそうです。 その結果、強い相手から苛められることも減り、相対的に弱い相手に対しては(それまでとは立場が逆転して)いじめる側に立ったのでした。
 中学になり、教師に呼びつけられて 「いじめはよくないことだぞ」 と説教を受けた頃を機に、今度は再びいじめられる側に立たされることになりました(教師に対しては、「先にいじめたのはあっちだ! こっちはいじめられたから受けて立っただけだ」 と説教に不満だったと言っていました)。
 下駄箱の靴の中には汚物。 廊下を歩いている あるいは 校舎沿いを歩いていて上から唾を吐きかけられる。 それに対抗するべく彼女がとった手段は、中断下校。 「せんせー。 くつ汚れたので帰ります」 「せんせー。 服汚れたのでかえりまーす」 という具合だったそうである。
(熱血教師だったせんせーは、自費で新しい靴を買って与えてくれたという)

 そんな彼女の昨今のいじめ問題への論評は、こうでありました。
「いじめられるほうだって悪い。やり返さないのが悪い」

 その一方で、私が思い出すのは、下に紹介する学生時代の先輩の論理と、その話題について後年コメントしてくれた一級建築士さんの言葉です。
 その先輩はこのように言いました。
 「聖書に 『右の頬を打たれたら 左を差し出しなさい』 という言葉があるけどね。 実はあれは中間が省略されているのさ。 それは
 『(右の頬を打たれたら) 相手の二倍でひっぱたいて、それから(左の頬を差し出しなさい)』
っていうのさ。 そうすれば、相手は倍返しでくることを知っているからもう手出し出来ない。」

 学生だった当時にでたいろいろな論理バリエーションは割愛しますが、私が落ち着いた考えにこんなのがあります。
「(右の頬を打たれたら) 周りの人間に呼びかけた後で、それから(左の頬を差し出しなさい)」
これでふただび殴ってくるなら、少なくともそいつの危険性は周囲の人間の知るところとなるし、後から暗闇で襲われたとしてもその相手が容疑者として認知されるのも早いからです。

  ※ 現実世界では、これを逆手にとって被害者を演じて攻略する策謀とかもあるから、頭の中で考えるほどは単純ではないものですが。 (例:日本側の自作自演解釈が優勢な盧溝橋事件

 この話題が会話にのぼった時に、一級建築士さんはこう言ったのでした。
「ぼくは高校の時に、そう言ったことがある。 そう思ったことがある。 右の頬を打たれたら、次はないぞと気迫を込めて左の頬を突き出してやれ ってね」


 学校の中にも、社会にも、いつだって序列が生じるものなのでしょう。 個対個 (個人vs.個人)で序列が決まるような単純な場合だけでなく、個対多(個人vs.複数)や 少数対多数(部門対全体)のようなさまざまなバリエーションで、公的な序列や私的な序列があたりには充満しているような気がします。
 もしも定められた(公的な)序列だけが全ての基準であるなら、おそらくそれは窒息しそうな社会であることでしょう。 ある日突然に革命が起きそうな閉塞感に溢れることでしょう。 そういう意味で、自然発生的な序列(人当たりや芸力)というものが社会のあちこちにあったほうが、社会は柔軟で安定するように思えます。
 その一方で、開かれた基準や公の審査のない中での序列形成にはどうしても不透明さが漂います。 勝ち負けがはっきりしない勝負の結果は、宣伝力の差で逆転されます。 条件の一定しないもの同士の比較は、好みや身びいきによってバイアスがかかります。 正確さや誠実さや慎重さと言うものは、この半ば私的な社会秩序の中では自らの足を引っ張る徳性になり、悪口と愚痴とレッテル貼り(揶揄するあだ名)の名人が中心に居座ることすら (論理的には)ありえるのです。
(ここまでひどいグループはそうないでしょうが。。。そういった群れからは逃げ出すのが賢明さであると思います)


 私にとって、あの時の担任は、いろいろな意味で 「先生」 でした。 おそらく私は生涯忘れることのない人生の教師であると思います。
 自分のことだけではなく相手のことも考える。 相手のことだけではなく周りのことも考える。 そういった自分の世界を成長させる基本のようなものを、言葉ではなくて実感として私に体得する機会を与えてくれたからです。
 その割りに、とうに当時の先生の年齢を越えてしまっていながら、まったくその人間性には及びもつかないな~。。。。 < これが実感 (ぽりぽり)

 interrnal war ─── 内なる戦いは、きれいにごまかしなく勝負をつけたいものです。

 いじめる奴が100%わるい。
 いじめられる人間にだって悪いところはある なんて、盗人の言い分と同じです。

 ほかのみんなはそう思わなくても、私だけはそう思ってゆきます。
post at 2006.11/18
last edit at 2006.11/30

by bucmacoto | 2006-11-18 19:47 | duality | Comments(0)
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