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秋・・といえば
2010年 09月 30日
25日の午後に、中山峠を越え洞爺湖へと向かいました。
羊蹄山(蝦夷富士)の山頂付近には、薄らと雪が見られました。
洞爺湖のぼろぼろホテルでの同期会(1学科=1クラスなのでクラス会)は道内に居る12名中8名が顔を合わせました。

秋分もすぎての数日は、夜間の気温も下がってまいりました。
そして勤務終了後には夜といってもいい、いわば秋の夜長の季節です。
先月から、NHKオンデマンド、世界史探索と道楽じみた時間の使い方をしています。

生涯 _ 逍遙の人 セーレン・キルケゴールキルケゴールのソクラテス理解などを読み、こころ 夏目漱石の読書感想文を読んでみたら、漱石を読んでいなかったことに気がついた。というか、小学校以来の私はすっかり文学という分野の作品は読んでいないことに気がついたのです。

文豪と呼ばれる夏目漱石の作品を青空文庫で読んでみました。
 夏目漱石 こころ
現代人と呼ばれる我々とほとんど変わりないこころのさまが窺えました。

次いで、レオ・トルストイ Lev Nikolaevich Tolstoi 森林太郎訳 パアテル・セルギウス VATER SERGIUS を読んでみました。
トルストイつながりで、書評松岡正剛の千夜千冊 『アンナ・カレーニナ』レフ・トルストイを頼りに、図書館で1972年刊のトルストイ全集(河出書房新社 中村白葉訳)7・8の アンナ・カレニーナ を借りてみました。
同時にミヒャエル・エンデの 自由の牢獄 も借りてみました。


「復習は我にあり、我これを酬(むく)いん」 という聖書の句が冒頭に記され、有名な一文(幸福な家庭はすべてよく似よったものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である)からはじまって、最後まで一気に読みたくなる文章の力を感じました。個人的には、レーヴィンの考え方や生き方がとても自分と重なったのですが、それはトルストイ自身の投影像でもあったようです。

社交界・・・というのは貴族がいない現代日本でいうなら、芸能界がそうでしょうか。
144ページ下段にある
『ほんとうの社交界──舞踏と、饗宴と、はなやかな化粧の社会、娼婦の世界へまでおちてしまわないために、片手でしっかりと宮廷をつかんでいる社会』
という表現など、文豪と呼ばれる人の表現力はさすがにすごいなと感じられました。


エンデの 「自由の牢獄」は、日本の星新一の作品を読むような感じを受けて読みました。


人のこころのうちを知るには自分自身のこころにあるものからしか知ることができないもので、自分のこころのうちを知るにも他人の振る舞いを眺め得た気付きが必要なものであるのですが、そのふたつは同じこころの表がわと裏がわである。という持論もあながち的外れでもないのだと、そんなことを頭の中に浮かべて秋の夜長に読書を進めてみたいと思いました。



post at 2010.09/30
last edit at 2010.10/04

ロシア社交界の華・妖精・・・という私のイメージを探してみたら、こんな感じですね。
(むろん、これはキティのほう) 画像元は ウィキメディア・コモンズ
c0062295_2091056.jpg


さて、華やかな社交界を構成するロシア貴族階級を支えたのは農奴という封建制度だった。
この農奴制は、(近代看護の象徴ナイチンゲールの活躍で有名な)クリミア戦争のロシア敗北によって近代化の必要性を痛感した皇帝の解放令で集結している。

およそ奴隷制というのは、文化的な発展の下地(社会的下部構造)としていつの時代も見られるものなのかもしれない。
哲学(ソクラテス)・数学(ピュタゴラス)・弁論術などの華やかな文化を生んだギリシャの社会がそうだった。
政治的にはギリシャを支配しながら、文化的にはギリシャの後継者を任じ後年はキリスト教を国教としたローマ帝国も奴隷が自由市民を支えていた。侵略が減り奴隷の供給が減少すると、ローマの自由農民が移動の自由を奪われ没落し、これが農奴の原型となったという。

思えば近代以降〜現代の、自由・平等・友愛(革命標語)を支えるのは、奴隷的な過酷な作業を化石資源エネルギーを消費しつつ生物に替わってやってくれる──機械という名の奴隷装置──の存在なのかもしれない。なんてふうに、手塚治虫のマンガや、SFなんかで育った世代の私は思うのだ。

先のクリミア戦争で近代看護の祖とみなされたナイチンゲールは、夜の巡回を欠かさなかったという。
その姿に多くの負傷兵が力づけられ、「ランプの貴婦人」とも呼ばれたという。
フローレンス・ナイチンゲール本人はその呼び方を歓迎してはおらず、本人の言葉として次のようなものが今に伝わっている。
「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」



神話や民話や宗教教義は、思いつきを明確な形に残され、それが癒しとして支持をされた時に成立する。
吟遊詩人・口承文化となればオラリティ(Orariti)と呼ばれる。
刻まれ文学とかになるとそれはリテラシィ(Literacy)と呼ばれる。
響きの文化・耳による聴感覚の文化と、輝きの文化・目による鳥瞰の文化という仕分けだろうか。

文化と文明との違いは、地域性(ローカル)に立脚するか広域性・普遍性(グローバル・パブリック)な基盤によるか、という話であった。こちらによると> 文明と文化の違い - Google 検索
宮廷文化とか社交界とかいう世界・・・それは花柳界とか芸能界とかいう世界と同じく、「文化」の範疇に収まるものであって文明ではあり得ないのかもしれない。
そしてローカルな世界に成立する文化には、(生物進化=分化における)種の多様性のようなものを感じ取る。その一方で、都市生活の上に表れるのが社交界のような世界である。(都市=文明 Civilizationとは都市文明の意味が本義っぽい)

ざっくりと、農耕や製鉄や情報技術のようなものは文明であって、その豊かな土台の上にうたかたの泡のごとくに流れるのが文化であって、そのうたかたな姿の中に不変な姿を見いだしたリテラシィの持ち主が文豪と呼ばれる人々なのだろうかと思った。
(まぁ、こういう括りにしちゃうと、ソクラテスやピュタゴラスやナイチンゲールはもちろん、宗教の祖やニュートンやアインシュタインやダーウィンだって、あるいはルソーやマルクスだって、文明的なリテラシィを体現していることになってしまうのでありますけど。。。)
by bucmacoto | 2010-09-30 01:42 | particle
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