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破壊衝動
2009年 04月 19日
まだ朝晩は寒いと思ってたら窓ガラスの外には蚊が飛んでいたのが目に入った。
そういえば日中は、ハエが網戸に止まっていた。
季節を感じた虫たちはいち早く春の羽化を終えたらしい。

窓ガラスメッセンジャーのリンク切れを修正していたら、検索途中で時事ニュースが目に留まった。

 女子中生6人が窓ガラス50枚割る 大阪・寝屋川 - MSN産経ニュース

24年前に尾崎豊の「卒業」の歌詞の中に、「夜の校舎 窓ガラス 壊して回った」という歌詞があった。
さらにその10年ほど前から、私の母校も含め校舎のガラスが壊される事件が頻発していた。

私の通った中学校は鉄筋で、二重ガラスと温風暖房が当時としては斬新だった。
(小学校も高校も木造・タール塗り・石炭ストーブの校舎だった)
たしか、中学入学時に、
 「この二重ガラスは断熱効果に優れており高価なので壊さないように。 昨年大掃除中に壊してしまったガラス窓は予算の都合で一枚ガラスをとりあえず入れているのです」
という説明と注意があったと記憶している。

その窓ガラスが私が卒業した頃から次々と壊される事件があった。
当時だってツッパリはいたし、教師を殴って停学になった下級生もいた。

私が小学校の頃だって、胸ぐらつかまれ吊るされた経験もある。(じっと見つめていたら殴らずに下ろしてくれた。捨て台詞はもらった)


反抗期という言葉がある。
思春期という身体が急速に大人になる時期の、自分では抑え切れないさまざまな衝動を小爆発させる時期のことだ。
野生の動物では、巣立ちの時期にあたるという。

親と距離を置き、それまでの自分が組み込まれていた社会秩序から一度 はみ出そうという本能が全身を支配するらしい。 親や教師などの権威へのやみくもな反抗と挑戦は、ときに破壊衝動となって若者の心を突き動かすのだそうだ。

私たちの頃は、それでも60年安保~東大紛争に象徴的なイデオロギー対立と世代対立の嵐の後だったためか、多少のことは「若い頃ってそういうものだ」という雰囲気が支配的だったと思う。 いわば今よりのんびりして牧歌的だったのだ。 (ただし勉強の面ではいまよりかなり詰め込みカリキュラムだったはずだ)

その後に非常に全国的に荒廃したといわれる時期を経て、徹底した生徒への管理体制構築と実践によっていわゆる「荒れた学校」は沈静化していった。 (そのことと反比例するかのように「いじめ」の問題が目に付くようになった)

体制への挑戦や権威への反抗が抑え込まれたと同時期に、弱い仲間への攻撃(いじめ)が強まったのは何かしら関係があると言われやすいがその実明確なデータは存在していないのかもしれない。(反抗が最高潮の時期だって、イジメはあった。 戦前のがんじがらめの秩序とバンカラのような鷹揚さを保った時期にも、イジメはあったともいう。)


よく子供の頃、父母の実家に行くと障子や襖に修復された跡が残っていた。 破らないようにと注意を受けた。
我が家は障子はなかったが、兄弟でふざけていてガラスを破ったことは数度ある。
障子と違って、ガラスは怒られるばかりでなく怪我をする恐怖があったのでイタズラでもわざと割ろうとは思わなかった。

そういえば、当時の北海道の田舎の家は、まだまだ貧しい家が多かったからだろう。
 割って壊れたガラス窓をビニールテープで補修してそのままの家、
 ガラスの代わりにベニヤ板を釘打ちした引き戸の家、
 ビニールで代用したままの家
などを見た記憶がある。

破壊衝動をコントロールする術(すべ)をどうやって人は身に付けるのだろうか。


完全な自己制御術・・・それが可能ならば、犯罪も戦争もこの地球上から根絶できていそうな気がする。 というのは誇張であるにしても、そのような不自然な介入は人間を盆栽のような(設計者の思い通りに育てる)育成を奨励しそうでやや怖い。 いわゆる完全な管理社会(「北」とよばれる国や軍事政権下でこれまでさんざん実践された)につながりそうに感じてしまう。

かといって「刃物の危険性を知るには刃物に慣れさせる必要がある」という論理がとめどなく拡張して、銃の入手しやすい国家で悲劇や惨劇が繰り返されるのを目の当たりにするにつけ、「喧嘩をやって暴力の恐ろしさを知る」と放任を考えるのも乱暴すぎるように思う。


おそらく最善の解決策は、とても遠回りに思えてまだるっこしいように感じられるほどの地道な努力の積み重ねを、本人も周囲も重ねてゆくことにつきるのだろう。
無責任でそういった事態の当事者でないからそんなのんきなことが癒えるのだといった、少し感情的な意見はこれまでも言われたことではあるのだが、自分を振り返り、友人の十代の頃を思い返し、バイト先でヤクザの手口を見聞きした経験を集めて真摯に考えを重ねるとどうしてもそうとしか思えないのであった。

からだを張っていさめるもあるだろう。
思いを込めて説き聞かせるもあるだろう。
涙と共に抱きとめるもあるかもしれない。

どのような方法であっても、あまりにも操作的だったり作為的だったりすると、そんな態度は自分を操作する「手口」であると感じてしまったし、本気であることを思い知ったときですらも「応えられなくて御免」としか行動できないのがその思春期時期だったように思う。

ただ、時が過ぎ自分を振り返った時に、あるいは、往時の仲間の気持ちや敵対した相手の気持ちを窺い知るような経験を重ねるにつれ、自分のちっぽけさと幼さと膨らまし続けた不満の頬袋の空虚さに、恥じてみたり頬を染めるのが破壊衝動に振り回された自分への報いというものなのだろう。
(大袈裟にもしない 軽く見せかけもしないなら そういう辺りなんだと思う)


東大紛争に立て篭もった学生や、赤軍派として暴れた面々や、弱いものに鬱憤を八つ当たりした人や、こっそり窓ガラスを壊して逃げおおせてしまった人などは、どれだけ逃げたとしても自分のやったことからは逃げられないのだという。 (表面上は忘却しているのに、何かの機会にその時の自分の行為を思い起こしてしまうのが人間なのだ)

自分が自分に対して自然に下す評価は、拒否できないし拒絶もできない。
そしてそれこそが、傲慢さの対極にあるという謙虚さの貴重な種につながるのかもしれない。
by bucmacoto | 2009-04-19 20:42 |   retro/post | Comments(1)
Commented by bucmacoto at 2009-04-22 13:09
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