- 北の空からみなみへ -
exblog staff

タグ:chaos∑cosmos ( 1 ) タグの人気記事
評判と評価と実力と
2006年 08月 08日
 私は、ちょうど 「はじめにことばありき」 で育ったタイプだと思う。

 下にほとんど年子のように妹弟が存在したためか、父の妹が嫁ぐ3歳頃までは その叔母が母親代わりであったと聞く。
難産後の保育器を経験したためか、身体は丈夫な方ではなかった。 好き嫌いも強かった。
そして本が好きになった。

 物心ついた時には本を読む癖があった。 (面白いことに私の記憶に、母親を初めて認識した時の記憶があるのだが、『あ、このヒト 誰?』 といった感じのものだ)
 早生まれの私は、幼稚園3歳児保育の体験入園を2歳後半で体験している。 その頃の記憶に、薄暗い廊下と そこを右に進んでドアlを開けたときのぱーっと広がる遊具と絵本の世界 というものがる。
 『かわたれ(彼は誰)どき』 と表現されることもある(乳児・幼児の)混沌とした時期 ~ 学童前の幼児期を通じて文字の習得は早かったようだ。(喋りは兄弟中で一番おぼつかなかった)
後年母から、「お前は本ならなんでも 文字が書いてあればよかったもんねー」 とか揶揄されるほど本を読むことには熱心だった。

 その一方で、ダイヤブロック(現代ならばレゴ)で凝ったものを造るとか、プラモデルを組み立てるとかいう造形への根気は全くないのだ。 文字だったら難しい字を読み飛ばしても、前後の文から あるいは全体を読み終えてからの推測で意味を汲み取ることができる。(でたらめ読みが今でも残るのはこれが原因だろう)
ところがプラモデルのようにきちんとはめ込まないと、次に進めない設計のものは不器用でかんしゃくな私には厳しいのだ。 見たままに思うように指先が動かないと、背中がむずむずして作業放棄してしまうのだ。
 そんな自分のぶきっちょさに半ば呆れつつ 半ば切れつつ少しづつ根気を身につけた。 だからだろうか。 他人の不器用さにも怒りを感じることが少ないのは。(もちろん仕事では時には後輩などの面子よりも、相手への配慮を優先して作業を取って代わることはある) たまに脳みその調子が良いと的確で端的な指示を出せるが、そうでないならなるべく黙って限界が来たら後を引き受ける心構えになれる。 むしろ私が我慢ならないのは、(相手の迷い道を助ける)助言と(自分の能力をひけらかす)指図とを、混同するような人が汗だくの人に苛立っている場合だ。 こんな場面に接すると、反骨心がむくむくする(結局アブナイ)のでなるべくその場を離れるよにする。 もちろん自分が逆の立場で助け舟を出してもらい 助かった記憶もあるので、精神的にゆとりある関係であれば助け舟を出す機会を窺(うかが)う。

 ちょっと話が脱線した。 読書量の話だった。

 手先が不器用なことから明らかなように、私は決して 「頭がいい」 とか 「飲み込みが早い」 というタイプではない。 それは他のふたりのきょうだいと比較しても明らかだ。 それなのに小・中・高と学生時代を通じて、よくできるという評判だけはもらった。(宿題もやらない人間なのね)
 おそらくは、直接的な思考よりも、言語を通じた間接的・抽象的思考が先行する発達過程を経たためだろう。(自分がASっぽいという自覚もここから)
ことばが重なり合う概念や 関係性は理解できるし 言葉を操作できるのに、言葉そのものとリンクする現実を実感する能力に劣るのだ。(893を私が怖れないことも こうした面が重なるのだろう)

 乱暴に端的に表現するなら、頭でっかちの子供だったのだ。

 そんな理由で、テストの成績だけはちゃんとしたものを取れていた。 課題や宿題は相変わらずだめだった。 そして範囲が決まっている定期テストとか小テストでは 駄目なくせに、学力テストならばまともなのだ。
 小学校の頃は、学年の始まりに教科書を通読してしまう。(活字ならなんでも乱読派) そして、あとは読んだだけでは分らなかった項目を 授業でわかるようになる。 毎日の予習も復習も全くしないし夏休み宿題は(要領が悪いのでとっかかっても進めずタイムアウト)、始業式が終わってからちょこちょこやって 後は当てられたら即興で答えると言うスタイルだった。
 高校の時はよく不思議がられたらしい(実は当時のことは記憶に薄い)。 定期テストではクラスで一番にもならないのに、なぜ学力テストは学年(7学級)で1位か2位なのだろうと。(私は入試は2番ただし進学校ではないだった)

 子供の頃に、よく母から子へと繰り返し話された説がある。

 「テストはそれまでの成果を確かめるところ。 勉強は(ちゃんと)大人になるためにするもの。 テストのためにするのは勉強じゃない。」

 テストは(チェックするのが目的である)手段。ただそれだけ。 テストでの評価を目的にしてはならないのだと。 そう理解した。


 話が飛ぶように思えるかも知れないが、私は身なりに無頓着だ。 学生時代を通じ(そして社会人になった今もしばしば)、寝癖を残したままに学校へ(職場へ)行くタイプだ。 ものぐさだということもあるが、見てくれや体裁を整えるのを潔しとしないのだ。
 営業職だったらおそらくもっと違ったことだろう。 接客業と言えなくもないから不潔にはならないが、もし純粋な研究職だったりしたら風呂にも入らないで没頭するタイプだろう。
 仕事の目的を遂行することには執念を燃やせるようにはなった。 その程度の根気と努力は惜しまずにできる。(もちろん一流の人々の足元にも及ばないレベルではあることだろう)
 ところが、「こうした方が世間の評判にいいのでは?」 という助言は、全て右から左へと聞き流れてしまうのだ(意図的に流しているわけではない)。

 監査があるからと言って、あたふたしない。 だから人によっては不安になるらしい(上も下も)。 査定があるからと言って、並べ立てられない(夏休み宿題と同じだ)。 だから人によっては、じれったく あるいはちょろ臭く感じるらしい。

 別に母親の教育のせいにするつもりはない。(弟は通年して定期チェックのあるパイロットで頑張っている)
 単に、私にそういった能力 ── 外部の評価に備えて自分を整える ── を育てる努力を怠っただけのことだ。 そういう方面へと力を振り向けるより、もっとやらなきゃというものがあったからだ。
 貧乏だったのに買ってもらえた ジャポニカ百科事典(別冊5巻付き)は半分から2/3程度しか目を通せなかった。 まともな人よりも読破量は多いかも知れないが、私は本を読むことくらいしかまともに通じる芸がないことを考えると、親に申し訳なかったかもしれない。(ギターだオーディオだFMだと ヲタ趣味は中学時代から始まっている)
 やらなきゃいけないことをやり遂げるのが 一流の人だとするならば、やりたいことしかやれない私はまさしく三流の人なのだろう。


 他人の ことばによる評価を 評判とするなら、私はそれに対して傲慢だったのだ。
 自分の真摯なことばによる判断が実力なら、私はそれを徹底して怠ったのだ。

 ことばはなくとも、事実はある。 これは私の変わらない信念だ。
 ことばしかなくて、事実がない。 これは許せぬ捏造だ。 私の理性はそう叫ぶ。

 ことばと事実と、歩調を合わせ、変拍子に気をつけながら そして楽しみながら、Cosmos(秩序ある宇宙)Checkを受け通り抜けよう。


 ・・・ う~ん。。。 最後の最後に電波が入ってしまった(笑)。
[PR]
by bucmacoto | 2006-08-08 22:34 | wave