- 北の空からみなみへ -
exblog staff

タグ:小さな説 ( 251 ) タグの人気記事
放射線防護の基礎
2011年 03月 28日
昨夏の終盤 ── 夜半をしばらく過ぎるとオリオンが東の水平線から昇る頃 ── 8月も暮れる頃に、なんだか緩み気分というか投げやり気分が優位となって、過剰入力・過小出力状態に陥っている。
情報入出力も接種栄養も、どちらもだ。

情報は、処理されてこそ生きる = 適切な情報処理があってこそ、理解され生かされる

ところが情報を操作する人が介在すると、有用な情報はガラクタに埋もれ、適切な警鐘が大袈裟と言われ、さほどでもない事柄が情動をてこに喧伝されることがある。

情報操作はいけない、適切な処理は必要。

それはしごく当然なこと。
そしてその当たり前のことを、忘れたり、忘れさせたり、という性向をもつ人間が直近の上司などにいるととても消耗するものだ。


さて、放射線の基礎知識はここしばらくの報道量の増加で、ほとんど常識に近いまで断片的な知識は普及したようにも思える。
と、同時に、あまり理解してないままに伝達(報道)していると感じられることもある。

今回の福島第一原子力発電所事故では、地震の二日目だったか、燃料棒由来のものに対し放射性物質という語を用いているのに対し、ちょっと 「ぉぃぉぃ(むかっ)」 っとしたのを憶えている。
原子炉周囲では通常の健全な運転であっても、核燃料が完全に封入されたままであっても、二次的な放射能というのは発生する。それは、中性子によって周辺のあらゆる物質(冷却用の配管や冷却水にいたるまで)わずかに放射化 ── 安定な同位体が 放射線を出すタイプの同位体に変化すること ── するからだ。
そのような二次的な放射性物質と、核燃料由来の物質とを混同させる表現に思えたから、眉間のしわが増えたのだ。 > 核燃料由来の物質(ストロンチウムや放射性ヨードなどは、核分裂生成物)が観測された時点で、少なくともセラミック状に焼き固められた燃料棒の一部は、燃料棒を覆う被覆管の外に漏出していたと考えるのが普通だろう

原子爆弾による被爆国であり、核アレルギーといってもよい心理も存在することに配慮は必要だとしても、核分裂生成物が検出されていながらそれをかなり広い意味をもつ「放射性物質」という言葉で表現するというのはいかがなものかと思ったのだ。(まあ、わかる人にはわかるからそれでいいということなんだろうが・・・)


かつて、日本初の原子力船として開発された「むつ」は、反対運動のさなかに外洋実験を強行し、「放射線漏れ」事故を起こして最終的に実用的な航海をすることができぬままに船の寿命を終えた。
このとき、母港に寄港することすら拒否する運動が繰り広げられ、「放射線の悪影響」「風評被害」を理由に、漁民の懸念をマスコミは大量に報じたものだった。

 放射線が漏れた → その漏洩した線束部分に鉛を貼りましするなりして対策完了

本来はこの程度で充分のものだったろう。
それが放射線と放射能を混同したかのような報道をされて、あの原子力船は配船となった。
まるで、「あつものに懲りてなますを吹く」を地でいったもののように。


放射線 と 放射能とは違うということは中高生でも物理の興味が高い子であればわかると思う。
放射線というのは、一般に「あとくされがない」ものだ。(ただし中性子線は除いてだ)
放射能というのは、放射線を出す物質のことだ。(放射性物質・放射性同位元素と広くは同義)

放射線という言葉は、電離放射線(iionization radiation)を短縮した言葉と思っていい。

イオン(電離)を生じる能力のある、電磁波・粒子束をそう呼ぶ。

電磁波は、波長の長い(=周波数の低い)ものは電波と呼ばれ、人間の目に見える帯域は光(可視光)と呼ばれ、それを超える短い波長(高い周波数ほど高エネルギー)は紫外線〜エックス線・ガンマ線と呼ばれる。すべておなじく光の仲間だが、
 波長が長いほどにすり抜ける性質が目立つ = 波の性質
 波長が短いほどに衝突したり弾きとばす性質となる = 粒子の性質
というのが大まかな性質だ。

波長が長いと通信に使われ電波と呼ばれ、波長が可視光ほど短くないとマイクロ波とか遠赤外線とか呼ばれ、見えないほど短波長だと紫外線とかエックス線と呼ばれるようになるわけです。

エックス線とガンマ線との違いをさっくり書いとくと、軌道電子(原子核の周りを巡る電子)の運動変化やエネルギー準位の遷移はエックス線、原子核のエネルギーを直接放出した電磁波だとガンマ線と呼ぶ < 細かく書くときりがないからこんなもんで ^^;

さて、イオンを作る(物質を電離する)能力があるということで、電離放射線という名前なのですが、電磁波(エックス線・ガンマ線)の他に粒子線といえるものがあります。
 電子が飛び出して来ると、ベータ線
 中性子2個+陽子2個がスクラムしたヘリウム原子核が出て来ると、アルファ線
 中性子が単独で法l出されると、中性子線
  ↑これは厳密には直接的な電離作用がないものの・・・透過性が強くてかなり厄介な性質がある

これらは書き連ねると長くなるからとりあえず割愛しよう。^^;


さて、実は粒子線の中で、ベータ線はアルミ箔で遮蔽できる。透過力はそれほど低い。
そして、アルファ線に至っては、紙切れだけで遮蔽できるほど透過力がない。
接触するとか、吸引するとか、体内に取り込むと大変だが、そうでない限りはちゃんと除染(洗ったり脱衣する)さえすれば、いたずらに恐れる必要はないものともいえる。ただし、線量計がないと見えないために不安を拭えないのが困りものではある。


放射線を出す物質を放射能と呼び、放射線源と呼ぶが、放射能から身を守る三原則は
 ・距離をとる = 1mmと1mとでは、受ける線量は百万分の1になる。
 ・暴露時間を短く = 短間と線量は比例するから
 ・適切な遮蔽体を用いる
ことなのだが、病院で使われる診断用エックス線のような低いエネルギーと違って、高エネルギーなガンマ線では鉛入り防護エプロンなどは意味がない場合が多い。< むしろ皮膚の被爆線量が増加することも考えられる (調べたい人は、ビルドアップ効果 などのキーワードで調べてください)

あ、下宿の風呂の門限が近いので、とりあえずここまでとしよう。

あとは、これらのキーワードをwikipediaで調べたりすると正確なことは理解しやすい・・・かも(笑
[PR]
by bucmacoto | 2011-03-28 22:35 | particle
これは記録せねば ^^
2010年 10月 24日
小学校の頃、マンガを買った記憶がない。(2年生から小遣いはもらったが、月額200円で文房具代込みだったからゆとりがなかった)

だがマンガを読むのは大好きで、学校にあるマンガ、友人宅のマンガ、床屋で読めるマンガを読み漁っていたものだ。
(自分で購入したコミックスといえば、妹が読んでいた影響を受けてはまった、白泉社 花とゆめコミック われらはみ出しっ子シリーズ全巻 = 三原順 くらいのものだろう)

今朝見たふぉっしるブログで、科学少女という記事を見つけた。
苦手なものに興味をもつきっかけとしては、こうした萌え系もあってもよいとおもう。
私自身、100均マグカップにて書いたように、その手の本を高校生の息子に贈ったこともある。< 誕生日に(笑)

歴史嫌いだった私の子供の頃を振り返ってみても、マンガで関心をもった部分だけはあとあとまで記憶に残っていたものだ。 < まんが日本の歴史 で一冊だけもらった室町時代のころだけはちゃんと理解できていた。
人名とかの記憶に全く能力がない=暗記ものはほんとうにだめ、そんな私でも興味がある分野ならけっこう憶えることができるものだというのは実感としてある。10以下の平方根(ルート)と円周率(π)と自然対数の底(e)、くそ面白くもない暗記だって好きな分野や必要を感じられる項目ならば繰り返す気もおきるしまる覚えすることだってできるものだ。

いわゆる 「こじつけ」 ってのは、強制されたり埋め込まれたりするのはどうかと思うが、「理屈はともかく役に立つ」という自覚で記憶することはいわゆる「読み書きそろばん」と同じように有用なテクニックなのだろう。
(ひらがなの由来がわからなくとも、九九の計算を機械的暗記に頼っていようとも、それで実用的な生活習慣として合理的なら、それは迷盲たる丸暗記でもOKといえるから)

ノーベル化学賞受賞(鈴木章 根岸英一)はあったけれど、夢中で取り組むタイプの研究者が育っているかとすこしばかり心配な感はある。
いわゆる(ゆとり教育)ってお題目は、本当は(生物多様性などと同じ文意の)多様性を育み、多様性を根絶やしにしないことによって達成されるべきものだったのだろう。
つまり、「普遍性は大事なのだが個別制を踏みにじることがないように」という原則だけが必要だったのであって、むりやりに「差をつくらない=均一な品質管理」する発想ではいけなかったのだと思う。 < この意味では、規格ぴったりの工業品を大量に作るのではなく、(不揃いでもうまくて栄養たっぷりならよいとする)農作物みたいな素朴な考え方と相通ずる態度が教育委員害に求められそうだ。

教える側の態度として、「好きか嫌いか」という価値軸で判断をすることはあってはならないし、「役に立つか立たないか」というだけで雑草を根絶やしにしてしまうことも控えなくてはならないし、「正しいか誤りか」を突き詰めすぎて(迷信じみた)超常識だけを信奉する世代を育成してもならないんだろう。とか思ったりする。
(迷信 という言葉は、超常識 と言い換えられそうだと先日から思っている)


カタめの説はこんなもんでうっちゃっておくとして、数年前に発売されたソフトカバーの本(元素周期 萌えて覚える化学の基本)から派生した動画をいくつか紹介してみよう。


再生時には右下端を押すとうるさい文字を非表示にできます。↑
【ニコニコ動画】【萌え元素】第4話 ランタノイド寮を救え!

元素周期表の歌(全3部〜初音ミク) +1(追記)
[PR]
by bucmacoto | 2010-10-24 15:05 | quote/data
秋・・といえば
2010年 09月 30日
25日の午後に、中山峠を越え洞爺湖へと向かいました。
羊蹄山(蝦夷富士)の山頂付近には、薄らと雪が見られました。
洞爺湖のぼろぼろホテルでの同期会(1学科=1クラスなのでクラス会)は道内に居る12名中8名が顔を合わせました。

秋分もすぎての数日は、夜間の気温も下がってまいりました。
そして勤務終了後には夜といってもいい、いわば秋の夜長の季節です。
先月から、NHKオンデマンド、世界史探索と道楽じみた時間の使い方をしています。

生涯 _ 逍遙の人 セーレン・キルケゴールキルケゴールのソクラテス理解などを読み、こころ 夏目漱石の読書感想文を読んでみたら、漱石を読んでいなかったことに気がついた。というか、小学校以来の私はすっかり文学という分野の作品は読んでいないことに気がついたのです。

文豪と呼ばれる夏目漱石の作品を青空文庫で読んでみました。
 夏目漱石 こころ
現代人と呼ばれる我々とほとんど変わりないこころのさまが窺えました。

次いで、レオ・トルストイ Lev Nikolaevich Tolstoi 森林太郎訳 パアテル・セルギウス VATER SERGIUS を読んでみました。
トルストイつながりで、書評松岡正剛の千夜千冊 『アンナ・カレーニナ』レフ・トルストイを頼りに、図書館で1972年刊のトルストイ全集(河出書房新社 中村白葉訳)7・8の アンナ・カレニーナ を借りてみました。
同時にミヒャエル・エンデの 自由の牢獄 も借りてみました。


「復習は我にあり、我これを酬(むく)いん」 という聖書の句が冒頭に記され、有名な一文(幸福な家庭はすべてよく似よったものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である)からはじまって、最後まで一気に読みたくなる文章の力を感じました。個人的には、レーヴィンの考え方や生き方がとても自分と重なったのですが、それはトルストイ自身の投影像でもあったようです。

社交界・・・というのは貴族がいない現代日本でいうなら、芸能界がそうでしょうか。
144ページ下段にある
『ほんとうの社交界──舞踏と、饗宴と、はなやかな化粧の社会、娼婦の世界へまでおちてしまわないために、片手でしっかりと宮廷をつかんでいる社会』
という表現など、文豪と呼ばれる人の表現力はさすがにすごいなと感じられました。


エンデの 「自由の牢獄」は、日本の星新一の作品を読むような感じを受けて読みました。


人のこころのうちを知るには自分自身のこころにあるものからしか知ることができないもので、自分のこころのうちを知るにも他人の振る舞いを眺め得た気付きが必要なものであるのですが、そのふたつは同じこころの表がわと裏がわである。という持論もあながち的外れでもないのだと、そんなことを頭の中に浮かべて秋の夜長に読書を進めてみたいと思いました。

More
[PR]
by bucmacoto | 2010-09-30 01:42 | particle
モンスター度の基準
2010年 09月 13日
定性的という言葉と、定量的という言葉がある。

定性的には、大きいか小さいか、重いか軽いか、割り切れるか割り切れないか、仮数か実数か、
などなどのことが、わかりきっている場合でも、定量化するとなるとかなり厄介な場合がある。

長さ・重さ・かさ(退席)なんかは、足したり倍したり半分にしたりという操作で一貫性ある比較が可能だけれど、態度や状態の評価っていうことになるとクリアにさくさく切り分けて捌(さば)くわけにはいかないからだ。

・・・そういえば1980年代の終わりに、セコさの単位=カラシ(納豆に付属するカラシを捨てずに冷蔵庫に蓄えるのを1単位のせこさとみなす)、気まずさの単位=ピっツァ(皆で食べていて最後の一切れだけピザが余った気まずさを1単位)なんていうのがあった。

モンスター(化けもの)という表現は最近のものだけれど、昔からいわゆるインネンをつける=ヤクザまがいってのはあった。
そういうヤクザ度・モンスター度みたいな尺度はあってもよかったのかもしれない。


マジコンでポケモン大会に出場しようとした親子! ブチギレして警察沙汰に – ロケットニュース24(β)


自分に対する基準と、他人に対する基準とが異なることを、ダブルスタンダードとか二枚舌とか自己中心的とかエゴイズムとかいうわけなんだけど、この手の精神構造ってのは差別感情とか選民意識とかととっても相関しそうにも思えたりした。
[PR]
by bucmacoto | 2010-09-13 23:37 | quote/data
経済学おんちのつぶやき
2010年 09月 05日
日本経済新聞が好きで、就職以来一度も取っていないのに、職場やら図書館やらで読み続けている。
かれこれ、私の半生以上そして四半世紀以上の期間になる。
ところが、経済学の概念にはどうにも理解できない部分がいまもある。

部分部分のメカニズムやプロセスを記述したものにすぎないと思っても、どうにもドグマ好き(Einsteinの相対性理論とかDarwinの進化論)なシンプルな前提から積み重ねられたものじゃないと学問・理論として正しいのかどうかを考えられないという私の脳みその事情もある。

そんな脳みそにとって不思議な理論のひとつに、「穴を掘って埋め戻すだけであっても、失業手当を払うよりずっと景気対策に有効だ」という理論がある。
たしか、遥か古代のエジプトのピラミッド建設や、日本の大仏建立などの事業も、現代と同様に需要創出のための公共事業と書いてある文章も昔からあった。(もちろん、権力者の力の誇示 と 社会秩序の構築シンボル、これが主目的なのだろうが)

社会的な安全網としての福祉と社会保障は、便乗者や悪用者(働く能力も意欲も機会もあるのに補償目当て)を排除できないとそれこそムダ金になるから、人々の倫理崩壊をきたさないためにも手当よりは仕事として与えるという部分は同意できる。
けれど、「富を分配する」ということと「富を循環させる」ということと「富を蓄積する」ことと「富を浪費する」ことと、この関係が私にはいまでもよくはわからないままでいる。

ムダな事業であっても、カネの巡りをよくすることが大事だから、、、という理論はどうにも暴論にすぎるだろう。もちろん、ケインズはそのように言ってはいないのに、そうであるかのように(内容を歪ませて)伝達した人々の罪なのだろうが。。。
 ※ わたしのようにわからないのも、罪になるのかな w


端的なはなし、

 空き缶を拾う、
 町を清掃する、
 河川を奇麗にしている、

そんなNPOに援助することは、ムダな仕事しかできない公務員を抱えるよりもよほど経済的によい選択に思えてしまう。


だが、問題は

 何がムダなのか
 何が将来に生きる投資なのか
 何を基準に誰がその【評価】作業を担うのか

なのかもしれない。


経世済民という思想はよくわからないし、民主主義という思想と社会主義という思想とはルーツは同一なんじゃないかな(弱者・少数者の権利を奪い支配するのではない世界を理想とする意味で同じかな)って思うほど政治的にも遠視(つか老眼)だけど、それでもムダっていうのはいつの間にかどこへか消えることを示すんじゃないかと思っている。
蒸発してしまう、伝達中に摩擦熱になってしまうっていうイメージだ。


さて、ムダをなくす方法ってのは難しいみたいだが、ムダにする方法ってやつはいっぱいある。
 表面上の価値を残したまま、実際の価値を減ずる。
(金の延べ棒がいつのまにかメッキとすりかえられたり、同じ簿価なのに実勢流通価格が低下したり、パッケージの中身が軽くなったり粗悪になったり)
ってのが直感的だなぁ。


世界史や日本史をこの夏は眺め見ている。
かつての世界は、奴隷制度をはじめ敗者と弱者を社会的に固定してしまうことで、社会と経済を安定させていたように思えた。
奴隷に落とされる恐怖は、刑罰と同様に、社会防衛への動機(敗けた捕虜は奴隷化されるから)となり、悪事への抑止力となった。
そういった機能はあったにせよ、身分固定の根拠が迷妄(迷信や妄想や讒言やデマ)だったことも少なくはないのが前近代時代の悲劇だと思う。


歴史の場合には「歴史に学ばなければ・・・歴史が教えにやってくる」という。そういうものこそが、「歴史の教訓をムダにした」その帰結として得られる報酬なんだろう。

そう考えると、「ムダにする」という定義を私がしてもよいのなら、

 生かすべきものを捨てること(忘れること or 殺すこと)

っていうのがしっくりするなぁ。私のでかいだけで低品質の脳みそ的には w
[PR]
by bucmacoto | 2010-09-05 20:07 | wave
思いつき話
2010年 08月 14日
先週、キャンプ先からの帰り道、助手席に座る息子にたずねてみた。
(この会話の伏線として、自己中心な主張をする人が、相手の非は声高に非難し、自分の非の遠因を他人や相手の行動に求めるものだという共通認識があった)

「若い頃の平等主義者が、やがて自己優先的になってゆき、終いには自己中心的になるっていうのはどうしてだと思う?」

息子はちょっと考えて
「あぁ、若い頃に年配の人に尽くした分を、年取った頃には自分も同じにしてもうらおうっていうの・・・」

私は遮ってこう続けた。
「言いたいことはわかるけど、これはそういう面をいったんじゃないんだ。
 言いたかったのは、こういうこと。
 平等主義者ってのは、自分がされたくないことを相手にやらない。自分がされたいと望むことは相手にもしてあげる。そういう心理で成り立っていやすいよね?
 ところが、価値観も違うし、ありがた迷惑だってある。それに人にやられたひどい仕打ちは何倍にも痛みを感じるし、人にやってもらった恩はいつのまにか感謝の念も麻痺してゆく。
 それを繰り返すうちに、自分は相手に100の貢献をしているのに相手からは50しか受け取っていない。こう考える。
 それか、自分はささやかな迷惑も遠慮しつつやっているのに、相手はこちらの大きな迷惑を平気な顔をしてやっているように思いはじめる。
 そうして徐々に、そのバランスを回復するために自分を相手より少しだけ優先させて、ちょうどよいバランスなんだと考える。
 そして終いには、自分の価値観をを中心にして、他人の価値観は些細なことにこだわっているだけのつまらないものだと思うに至る。
 こうして、名君は暴君になってゆく。
 自分が中心になって地球は回っている、自分の姿勢だけが揺るがない、地軸そのものなんだと思い込む。」


多くの神様(のような ヒト)にも、これはあてはまるのかも知れない。



というヨタ話(脳内で言葉だけをつぎはぎした似非ロジック)でした ^^;
[PR]
by bucmacoto | 2010-08-14 22:10 | wave
balloon heart
2010年 08月 14日
期待や希望に胸が膨らんだ経験は誰にも一度くらいはあるものだろう。

進学、就職、移転、旅、変化、出会、好機、そういった現実が、予想(期待)を超えていると感じられたときにこころは踊り膨らんでゆく。

お金というのは脳が評価した「感謝の証」か「謝罪の証文」だというのが私の原始的な定義。
(プラスの気持ちから生まれるのが感謝で、マイナスの埋め合わせに使われるのが謝罪)
なのだが、そのお金を蓄積と集中させると資本となる。

なだらかな気温や湿度の変化は、湿度がいくら高くても雲や雨にはならないのに、異質な空気の境界では、雲が生まれ風が吹きエネルギーが顕在化する。

吸気と圧縮と点火(爆発)と排気のサイクルが、内燃機関の基本形だが、ドバイというアラブ首長国連邦の都市はめまぐるしい速度でそのサイクルを反復再生産しているらしい。日本の1990年頃のバブルの頃を彷彿とさせる熱狂ぶりだ。

 NHKオンデマンド | NHKスペシャル 沸騰都市 第1回 ドバイ 砂漠にわき出た巨大マネー


サブプライムローン問題、リーマンショック、ギリシャの債務不履行危機など、世界経済の変調の波はさしものドバイにも影響を与えたようで、現時点で世界ナンバーワンの高さを誇る高層建築 ブルジュ・ドバイの完成は一時は危ぶまれたらしい。その結果最後に完成するために貢献した人物の名を冠して、ブルジュ・ハリファとなったという。


バルーンのように膨らんで、あげく、はじけてしまえばそれはバブルと呼ばれる。
風船のように膨らんで、それが実を結んだ時に、それは未来を建設したとされる。

全体の利益を考えられるような人々を、神話的には神と呼ぶ、天と称す。
全体の利益を損なおうとも自分の利益を追求し、最悪の場合には他人の不幸を足がかりにしようとする人々のことは、非天と呼ばれ悪魔とみなされる。

お金=価値を記した証文

記録された価値が、上げ底でハリボテで中身が軽すぎるなら、それはしぼんでゆく創造妊娠みたいなバブルということになってしまう。それに人生や蓄えをつぎ込んで、価値のない紙切れだけしか残らないようにならないでありたいものだ。


投機と投資は、似て非なるものだけれど、ことにあたる時の心理は近いものがある。
 得たいものが、お金(証文)でしかないなら、それは投機。
 得たいものが、土台(礎)に過ぎずその足がかりに立ちあがるなら、それは投資。
強気なときの心理は、ほとんど区別がつかない。


思うように儲からないときに、儲けを抱えたまま逃げ出すのは投機家の性だろう。
思うに任せぬときに、サンクコストに縛られず撤退するのは投資家の勇気という。
ほとんどこれも、区別がつかない。


両者を区別する指標は、最後には、こういうことになるのかも知れない。


外からどう見えるかと気に病みながら、選択してしまう道。これは追い立てられた道。
どう見えるかよりもどうであるか、どうできるかを選択する決断。これは選択した道。


叱咤激励というのはいつも難しいものだけど、威勢のいいだけの(性悪だとこれを「愛のムチ」と称すらしい)追い立てるような言葉は避けなければならないものだと思う。
Take it easy(だいじょうぶさ吉楽にやろうぜ)といいながら、誰かを助けるために重い荷物は荒れた海に投げ捨てるような、そんな言葉は作り物でない態度からしか生まれない気がする。


ハイテンションという気分は、恋愛でも躁病でも支配的になってしまうものだけれど、その胸の膨らみ具合を熱い熱気を、まっすぐに頭にのぼらせないでいてほしい。
それがしぼんだ時にも自分で泳げる程度のものだけ持っていれば、それでいいのだから。
ほかの誰かに熱気を吹き込まなくても、その浮力をあてにしなくても、沈まないくらいで。
ね。
[PR]
by bucmacoto | 2010-08-14 21:17 | wave
阿修羅のごとく(旧作ドラマ)
2010年 08月 14日
NHKオンデマンドで、無料番組とキャンペーン価格(315円→105円)をやっている。

阿修羅のごとくという30年前のドラマを見た。
直木賞も受賞した向田邦子(TBS「時間ですよ」の脚本家)の作品だという。

放映当時の私は、左翼思想かぶれ(ちなみに向田邦子氏が赤旗を読んでいたというのは今回知った)でベトナム戦争でのNHK報道姿勢を嫌悪するタイプのティーンエイジャだった。
(ベトコン・中共 という用語は、あの日あの時 1965年(昭和40年)を見ると沖縄返還当時の「中庸・中立」なる用語だった・・・のか?)
音楽番組を見ることはあっても、NHKのドラマなどはまったく見ていなかったので、今回初めて見たのだった。

同時に、やはり1週間分が無料のちゅらさん風のハルカも見てみた。
無料部分だけのつまみ食い視聴ながら、NHK番組の品質は高いと思えるものだった。

現在は 以前の WindowsMediaVideo形式から、FlashVideo形式へと変更されたので、Macによる視聴が容易なことも私にとっては幸いだった。


ちゅらさんが人間のほのぼのさを描いたものだったとしたら、阿修羅のごとくは人間くさいどろどろさをからりと描いたものだといえよう。

しゅらさん、それはどうやら生命力そのものともいえるようなヒト型本能(畜生型のこころ・ガキ型の際限のなさ・毀誉褒貶に舞い上がり撃沈する天国と地獄の間で迷える生命)を象徴するかのような存在だと思った。

阿修羅
[PR]
by bucmacoto | 2010-08-14 19:50 | wave
2010.8/1の夕空
2010年 08月 01日
午前10時頃、にわかに辺りが暗くなり、強めの雨が降った。
寒冷前線が上空を通過したのだ。
気温は9時台で27.4℃→11時には22.1℃となった。

それから夕方にかけて徐々に天気は回復に向かい、衛星画像でも北西方向の雲が消えてゆく傾向。
久しぶりに夕焼けが撮れそうだったのでふらふらと自転車であてもなく出かけた。
結局、夕暮れなら海辺という定番思考でBingo*だったようだ。

この衛星画像は、http://tenki.lbw.jp/ より画面キャプチャした。
c0062295_2113658.gif
c0062295_2131562.gif
c0062295_2134042.gif
c0062295_2142590.gif
c0062295_2145074.gif


pctures(注意:無意味に多いです)
[PR]
by bucmacoto | 2010-08-01 21:41 | wave
2x年越しの初読書
2010年 05月 05日
昭和47年初版というから、邦訳から38年以上を経過した児童書を借りました。

J.R.R.トールキン 指輪物語、これを借りたのです。

SF系は大好き、特にアシモフの作品は十代のころの大好物でした。
また、自分の子供と一緒に、J.K.ローリングのポッターシリーズは一度ならず目を通しました。
ですが、ファンタジーの中で超有名なこの本は、いままでまったく読むことはありませんでした。
(知り合いや友人に、幾度となく推薦されていたのに・・・なぜなのでしょう)

読み始めてみると、邦訳されたのが私が子供のころだからなのか、最初は日本語の表現方法に古臭さを感じたり、見慣れぬ振り仮名に戸惑ったりしました。
思えば、少しでも古い表現だと、子供や若者の頃って敬遠することが多い気がします。
(振り仮名とか、当てる漢字とか、英米発音の読みとか、小さなことで違和感を抱くのです)

そういえば、名作といわれる、R.キャロルの 「不思議の国のアリス」や「鏡の国のアリス」も、発刊されたばかりの名作全集を読むとぐいぐい引き込まれたのに、図書館にあるちょっとだけいかめしい本だと、ぜんぜん楽しめなかったことに思い至ります。

森鴎外などの、ヴィーンとかヴェニスといった表記も、(原音に従うをよしとする今となっては正しいのに)とっても違和感を感じたのが中学校の教科書の中でした。

そういえば、講義でわからなくて、図書館で偏微分を調べたときに、「函数」(いまは関数)という表記に戸惑って、どうにも理解できなかったことが思い出されます。


 似て非なるもの を、見誤らず混同しないで、
 異なる陰影から同一なもの を、見抜く。

というのが、マンツーマンで教育を受けるときの醍醐味なのでしょう。


ことば、概念、思想・・・それら(いわゆる情報)は、現実そのもの(ざっくりした実在~実存)の影(写像)でしかないのですから、投影像のゆらぎに気をとられないということがいわゆる効率のよい学び方ということになるわけですね。← まちがっても、形式的な知で充填する意味はない
[PR]
by bucmacoto | 2010-05-05 21:54 | particle