- 北の空からみなみへ -
exblog staff

<< おべんきょう せきゅりてぃ(復習) light shadow >>
access record
2008年 09月 07日
夏が過ぎ、検索エンジンから訪問されるラッシュもなくなりました。

宿題を辻褄合わせするために、
c0062295_22444374.gif
の文字を検索窓に打ち込む姿と言うのが、涙を誘います。。


人によっては理解されない方も居られるようですが、【試験のために勉強をする】という姿勢は本末転倒だという刷り込みがあった地域と時代もあります。
・勉強をどれだけ理解できているかのチェック
・分かったつもりでいながら、実はどれだけ分かっていないかのチェック
これが本当の『試験の意義』なんじゃないかと思うわけです。
つまり、試験は 「(単なる)結果であって、目的ではない」 + 「(実力を知る)手段・機会であって、ゴールではない」。 こう思う思考形式です。

 おそらくそういうのは、うちだけじゃなかったと思うんですけどね。。。


試験を、選別の手段 そして 競争の道具 にしてしまったことが、いつの間にか試験の点数「さえ」よければいいという「目的」になり変わり、いわば 「替え玉だっていいじゃないか」「後で身についていなくたってその時できればいいじゃないか」って発想の誘引になっていると思うんです。

お受験のために 「言葉遣い」「立ち居振る舞い」を仕込まれる子供たちって言うのは、なんだか京の舞妓さん芸子さんの仕込まれ方と重なる印象です。 あるいは舞踊や足芸を仕込まれる曲芸団の世界でしょうか。。。

「形から入る」ことを頭ごなしに否定するつもりは毛頭ありませんし、そうしなければより多くの均質で最低基準の品質を満たせなくなることは、(おそらく)工業製品でも人間教育でもある程度共通することだとも思います。

ただねぇ。。。。「形から入ることが唯一」(そうは表現していなくても、大多数にとっては効果的≒最善手 というニュアンスが読み手には絶対的強調事項に感じさせる)という思考や、試験(の合格)が目的で 勉強はその手段 ── だから効率よくより多くより正確でより速いならそれでいい(後のことは今考えるな) ── という思考には、どうにも抵抗があるんですよね。 わたし。。。


かのフェアプレーを旨としたオリンピック精神も、口パク(Lip-synched song)容認の時代になったのだそうです。 って本当かいな?
 19世紀末~20世紀の初頭に生まれた、ノーベル賞(Nobel Prize)、アンリ・デュナン(Jean Henri Dunant)の国際赤十字運動,そしてクーベルダン(Baron Pierre de Coubertin)の近代オリンピック の三点セットを、「近代の合理精神と人道・人類愛の精神性のシンボル」として理解している私の脳みそが古すぎでしょうか。


ショー・ビジネス って、商・業 なんでしょうかね。(まぁ ショウギョウではあるな)

 日刊!彩賀ゆうの『似顔絵』コラム: チャン・イーモウの演出で口パク少女

演出するという手技は、多用して重ねすぎるとどうしてもうそっぽくなるね。
それを承知でやる方も見るほうも心構えているからいいんだ! って論には、組したくないんですよ。
ワンポイントのきらりと生きる演出っていうんなら、フェアプレー精神をぶち壊さない範囲なんでしょうけどね。

近代合理主義・資本主義・商業主義のよい点は、組み合わせの妙を生かすこと。
そして悪い点は、つぎはぎで一貫性に欠けてしまう傾向があること。
封建制の悪い点が守旧性で、よい点が一貫性・不変性だとしたら、その良さを壊さずに新たなものを形成しようというのが近代精神の原点じゃないのかなぁ。





古いものだから、悪いという物言いも、愚かしく
新しいものだから、進化して高性能という思い込みも、曖昧すぎる

努力は美しく尊いものだけれど、人に押し付けるものでなし、人に認めさせるものでなし
結果は厳しく純なものだから、自分に残るものであり、自分に残ったものであり

試されることは、うれしいものではないが、試されて初めて認められることがある。
検証することは、必要なことだから、多様な中での自分の凡庸さを知る機会である。


どれだけできるか、だけが試験の意味であるから、できないことが責められる。
どれができないか、それが試験の価値であるから、できないことに意味がある。

自分の記録、ただのLogの一種、試験なんてそれで十分。
他人と比較したければしてもいいけれど、それは自分ですればいい。

人(他人)は人(他人)、自分は自分。 それでいい。
自分は多くの他人の中の一人、みんなと同じ、それもよい。




アクセスログ(記録:レコード)なんて、毎日が試験だと思ってみたっていいけれど、
そんなものあってもなくても、上がっても下がっても、本当のところはどうちらでも大差ない。

 一応のまとめや区切りとして、置いて見る。 それでいいのだ(ばかぼんパパ風に)



参考までに、エキサイト・ネームカードの最多アクセスの人は、一日3万~5万くらい。 100位くらいで1500~3000。 5000位くらいで300。 という具合のようだ。
私の場合、1万位以内はそう目にしない(めったにこのアクセスランキングは見ない)けれど、昨日の例(ごく好調な訪問者の場合)を記す。
c0062295_9251243.gif



そうそう、何度か(?_?)として投稿したエキブロ設定から見られるレポートですが、昨夜 2008年09月06日(土)23:53 に面白い現象が。。。
 ・フライングしたレポート(土曜のうちに日曜の数が。。それが異常な数)

c0062295_1058879.gif

 ・一日平均と今週の行とが不整合 本日欄とも合わない
 ・その一時間半後には、正常復帰 ↓

c0062295_1059488.gif

データベース不整合って、今の技術でも発生するものなのですねぇ。。。


さて、試験を通ったからといってそれが完全であるという証明にはならない。 このことは自明のこと。
データベース運用テストにしても、学力検定にしても、あるいは資格試験にしても、それは共通するだろう。

モンスター・クレーマとか呼ばれてしまう人々は、見方によっては偶然の神様から授けられたテスタであるのかも知れないなぁ。

そう・・・いつの世もテストって奴は嫌なもの・・・だから普段の心がけが大事 ^^
ゆめゆめ、要領が悪いだけで言い訳が苦手な人(普段の心がけは悪くない)に、「そういう応対だからいけない」という語調は慎みたいものだ。 そう思った。

大げさに聞こえるかしれないが、「言い訳上手・ごまかし上手・その場しのぎの達人」を増やしてしまうと、日本国の地力をそぐ事になると思うのでした。(委細省略)
[PR]
by bucmacoto | 2008-09-07 11:38 | particle
<< おべんきょう せきゅりてぃ(復習) light shadow >>
<< おべんきょう せきゅりてぃ(復習) light shadow >>