2007年 05月 30日
がっちり2週間かけて読み終えました。 (初版初刷のため表紙が現行のものとは異なっています) 決して泣けるような種類の本ではないと聞いていたのですが。。。 自省録以来の勢いで私にハートヒットしてくれました。 ということでばくのひとつ覚えな引用文を記載します。 注:この本は著者は没しておりますが、出版社が出版著作権を保有しております。 もとより引用という いいわけで文を紹介しているのが、私の『引用文』です。 権利当事者より侵害の申し立てがあり次第、即刻にこの文章は公開終了します。 そうそう、この本とは関係ないけれど、図書カードを差し込む袋にあった台詞が結構気に入りました。 そこでその図書館カードにあった添え書きをまず引用しましょう。 この書を用い給え 地面の底がぬけたんです ある女性の智恵の七三年史 著者:藤本とし 図書コード(旧) 0036-0012-3015 くだける 私が一番困ることは、と言うより避けようと心をつかっていたのは、よその部屋で食べものをいただくことである。我が家では当然のような顔をして湯呑の中のお茶の熱度を舌先で確かめたり、お小皿のこんぺい糖や栗ボーロを、これも一つ一つ舌先で巻きあげ、もののみごとに平らげてしまうのだが、よその部屋ではそうもいかない。 いくら不自由は承知であっても、これではあまり無作法である。 それに自分自身も情けない。 そこでやむなく手を出すことになるのだが、これが実に辛いのである。 てのひらだけの手が恥ずかしいからではない。 あまりに麻痺ぶかいために、たいていの場合、粗相するからである。 お菓子ならばまだしも、お湯呑みを転がして、そこら一面お茶だらけにしたときなどは見が縮む。 これを思うと大好物のお寿司やみたらし団子があったとしても喉から手はけっして出ない。 理由はもう一つある。 私は失眼して間のないころ、軽症寮の友を訪ねたことがあった。 すすめられたお茶をこぼさぬように、こわごわすわっていると、友がこういったのである。 「あんたの好きな焙豆がな。 すこしばかりあるのや。 さあ……手を出しなはれ」 私は喜んでその言葉にしたがった。 すると、 「あれまあ、両手を出すほどありゃへんがな……」 と苦笑しているらしい声がいきなり私の胸を射た。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 「なに言ってんのよ。 どんなにすこしでも私のお手皿は小さいから、二つ並べなきゃこぼれるわよ。 眼で梶はとれませんからね」 今なら平然とこう言ってのけたであろうに、そのときは新米盲のかなしさで、心はまともに傷ついてしまったのである。 私が他室で物をいただかなくなったのは、この時からである。 ところが今日、思いがけなく、そのかたくなが大痛棒をうけた。 こうである。 桜がチラホラ咲き始めたというのに、まだ肌寒い海かぜの中を、私はチエさんの寮に向かって歩いていった。 縫い物を頼むためである。 吠えながら犬がやってきて私を越して左へ曲がった。 私はゆっくり反対の方向に杖をまわした。 そのとき、 「やあやあ、しゃもじが招いてくれたよ」 と声がした。 チエさんである。 どうやら庭にいたらしい。 チエさんはけげんな顔の私の前で一気に喋り始めたのである。 「今日はこの部屋でなあ。 親たちの年忌を勤めてもらったのや。 牡丹餅をたんと作ってよう。 詣ってくれた人たちにふるまったところや。 今みんな帰ったので、あんたにも食べさせたいと思うたけど、あとかたづけが大変やろう、あんたの方から来てくれたらなあ……と思っていたところや。 うちのほうではな、こんなときその人がひょっこり来ると、しゃもじが招いたと言うのや」 私はいつものように、 「困った!」 と思った。 何とかしてこのご馳走をさけねばと苦慮しはじめたのである。 そこで、コーヒーを飲んできたばかりなので満腹だと言ってみた。 用事があるのですぐ帰るとも、奥歯がうずくとも言ったのである。 けれどチエさんは、 「今日はとくべつの日だから一つだけでも食べておくれ」 ときかないのである。 私はとうとう根負けして、 「では本当に一つだけよ」 とうことになってしまった。 たちまち牡丹餅があらわれた。 じつは大好物のそれである。 チエさんはゴム紐で、私のてのひらにしっかりさじをくくってくれた。 古里から送られてきたという糯米(もちごめ)と小豆のなつかしい匂いが私の五臓をかけめぐる。 ひと口いただいてみると、まったく美味しい。 内心ほくほく、ふたたびさじをおろそうとしたとき玄関で大きな声がした。 「こんちわー、いるかなー」 杉山さんである。 かれもやっぱりしゃもじに招かれて来たらしい。 やがて、彼の前にも牡丹餅が運ばれた。 この人も盲目なので、チエさんが持たせてあげた箸でコツコツと器をたたいて、そのありかを数えている。 「あっ……こりゃうめえ、とってもうめえぞ」 杉山さんのしんから嬉しそうな声が私の耳を打ったとき、私は一つを食べ終えた。 そこへチエさんが来て、 「さあさあ……もっと食べや、追加をたんと持ってきたぜ」 と言った。 杉山さんはさらに歓声をあげてこれに応じたのである。 チエさんは私にも声をかけた。 「さあ、あんたも食べた食べた」 「じゃあ、もう一つ」 私はうっかり言ってしまった。 その背にぴしりー、平手がとんできたのである。 「あんたは、うちに来てまで遠慮してー、ほんまに阿呆やー」 と言葉がつづいた。 お腹いっぱい食べ終わった私の顔は、濡れタオルできれいに拭きとられた。 手も同様に掃除されたのである。 私の目はこのとき覚めた。 長いあいだ人々の愛情をふみにじっていたことが悔いられた。 人と場所とを分別する心を私に残して、狭心はくだけていったのである。 私はこの文章で目の裏が熱くなります。 私はたくさんの狭心で心を固めすぎているからかもしれません。 「心を砕く」 という表現をふと思い浮かべて。
by bucmacoto
| 2007-05-30 23:30
| quote/data
|
Comments(6)
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purausu at 2007-05-31 08:59
すごい本をご紹介くださって、ありがとうございました。
引用のお手間だけでも感謝感激です。 さっそく、図書館に注文しました。表紙を開くおそれと喜びと ふたつわれにあり。
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bucmacoto at 2007-05-31 19:17
△ ぷら さま
ご紹介してくださった einzian さんに私も感謝です。 図書館でこの時代(1974年初刷)のを借りようとする人間は多くないようで、すぐに道立図書館から市立図書館側へ貸し出されたみたいです。 意外なくらいに淡々と読めますよ。 そして静かに考えさせてもらえる本です。
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enzian at 2007-06-01 22:18
TBありがとうございます。^^
>人と場所とを分別する心を私に残して、狭心はくだけていったのである。 ぼくも砕かれましたよ。 暴力的にではなく、閑かに、そして上品に砕かれてしまった、という感じです。 まいりました、と言うほかありません。(^^ヾ
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bucmacoto at 2007-06-02 00:58
△ enzian さま
先のコメントで お名前をスペルミスしております。 失礼いたしました。 分別するのは端正な気持ちの表れで、差別するのは歪んだ心持ちが根となったのでしょうか。 私は、『瓜田不納履 李下不正冠』 などという形式的倫理の端正さには同意しかねるタイプでありますけど、このような分別なら腑に落ちますです。 こころを固くしたり狭くする副作用のない鍛えというものを、閑(しず)かな心とでもいうのでしょうか。 < 閑(しずか)の読みを今回ちゃんと知りました~ ^^;
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at 2007-06-08 16:56
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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bucmacoto at 2007-06-11 00:07
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