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conflict / collision
2007年 03月 18日
 学校英語能力が壊滅的な私だから、コンフリクトコリジョンも繰り返しハングアップを見るうちに覚えた単語と思われる。(白状すると【コンクリフト】かと今まで勘違いしていましたっ 汗;)
 計算機用語かAnatomical語としてしか英語を理解できていない私って、とことん理系頭なのだと思うのです。 語幹とか語源とかの基本概念から連結してないと、たちまち脳みそから減衰&消失
してしまうという特徴。。 したがって人の顔と名前なんてたちまちにして忘れるという。。。(かつて、自分の母親の名を思い出せなかったことがあるのは内緒です < ボケではない 十代の頃)
 思い返すと,物理はやる気になっても化学・生物は苦手、倫理・社会はそのまま解かっても地理・歴史は敬遠、という傾向だったのも 羅列されたものをばらばらに独立した形で憶える能力が欠落していたからでしょう。 こう理解すると、現代国語は(読書と新聞で)使っていたからわかるけれど 古文・英語は壊滅的だったのも合点がいきます。
 ・・・,まぁその得意科目の物理(電気)にしたって、大学(工学部)入試の最中に公式を導くところからやっていたという大うつけですが(爆) < ちゃんと合格できたのが笑える(ここへは進学しなかったが)

 コンピュータが突然に停止した経験は多くの人が持っていると思います。
  1. 無限ループ(循環参照・同期発信的フリップフロップ)
  2. [デバイスIO] [IOポート] の競合= 入出力権限の衝突
  3. 割り込み処理の衝突 / 処理不適切 = ハードウエア割り込み / ソフトウェア割り込み
多くはこの3者が原因となるようです。
 2番目と3番目の違いはどう説明すべきか迷います。。 シェア(共有)とプライオリティ(優先権限)の違いとでもいうと、当たらずとも外さずというところでしょうか。
 かつてOSによる制御が緩やかだった頃のデバイス・ポート制御では 今と比較するとデバイスドライバ(プログラム)が自由にハード(デバイス)を制御できました。
プログラムが無責任な割り込み処理を行うとハングしていた時代です。
 時代は下り、CPUの命令にも優先権限の順位が出来て ほとんどのデバイス制御はOS経由で行われるようになりました。
直接のハードウェア割り込み処理プログラムは使えず=不適切なプログラムの常駐は出来ず。 その代わりに,割り込みを発生させた場合のOSの反応で処理経路を決めておくようになりました。
 いわば、直接参照から → 間接参照へ と変化していったわけです。 (この手の変化を 進化と呼べるかどうかは むつかしいなぁ。。)
 具体的に割り込みの競合例を示す(わかりにくいかも^^;)
パラレルポート1(仮に[PRN1]と置く)に対して、それを利用するプログラムが プリンタドライバとP2P通信ドライバであるとする。
 プリンタドライバはPCとプリンタとを結んだ制御を担当し、
 P2P通信ドライバはPCと他のPCとをパラレルポート経由で結んだ通信を制御している。
 どちらも、使用しているハードウェア資源 つまりパラレルポート1[PRN1] は同じものです。
このパラレルポートのように入出力を担当する出入り口をIOポートといいますが、このようにプリンタとP2Pというように接続相手が異なる場合があります。これを別なドライバの存在全てを考慮してプログラミングするのは事実上不可能です。 通信接続対象がプリンタなのかPCの同類プログラムなのか毎度確認することと、可能なのはせいぜい [割り込みハンドラの退避/復帰を適正に][内部waitループは使わない][例外処理割り込みを潰す]といったことに限られます。
 いわば行儀がよいプログラムにすることで安定性は増しますが、度を越すと動作が重くなります。 バックグラウンドで動くデバイスドライバやデーモン(サービスプロセス)群が遅くなるというのは、ある意味PC資源のムダ使いです。
 コンパクトで高速なドライバ と 全体動作の安定性とを両立させる手段が、OSによるハードウエアの一元管理でドライバが勝手に直接に資源(リソース)を消費するのを防ごうというのが現代のPCの基本スタンスなのだと思います。
 ※ CPU停止に至るほど致命的なのは ゼロ除算 などに見られる。
  かつて、RISC陣営がこの割り込みの存在を理由にIntelプロセッサの欠点としたこともあった。
  中高年には懐かしく、青年には意味不明かも。。面白いけど ^^; → Omicron 割込みUPC


 職務に忠実であろうとすれば、必然的に葛藤がおき,立場に従順であろうとすれば、不可避的に内部衝突が生じる。 というのは私も含め多くの人が感じ経験して来ているようです。
私の就職直後の例で言えば 次のように。(多少 端折り 少し脚色・・・ < 半ば捏造じゃん? w)
所属セクションの長 → 「黙っていることは決してよくはない。 沈黙と寡黙は違う。 大切なのはきちんとしたアピールだ。 抱え込まないで表明され共有されてこそ、情報に価値が生まれる」

所属直属の上司 → 「まずきちんとしたデータを揃えること。 誤ったデータに基づく推論は棄てること。 自力ではデータを揃えられない場合には、理由と共に助力を求めること」

所属セクションの先輩 → 「見落とすな(これは義務だ)。 指摘はできる(これは権利)。 評価は絶対にするな(これをしたら責任であると心得よ)。」

 こういった言葉(概念)による導きは、わかってしまえば矛盾無く受け入れられるものですが、自分の中で整合性ある(いわば血肉となった)言葉として根付くにはどうしても歳月が必要なようです。 上記の言葉も、長の言葉に従い「まず表明すること」を基本姿勢とすると、直属上司の「正しいかを確かめるのが最優先」と(場合によっては)矛盾します。 先輩の言葉に至っては(理念としてはまさしくその通りでいいのだが)、見落とさないようにして気付いたことを(無分別に)指摘などできはしない(自分の中で表明の可否について評価を下してから指摘するものだ)。
そういえば、いまだに達成できない先輩からの指導に 「慌てず 急げ」 というのもあるな。。

 集中というものは (気をとられることを意識にのぼらせずに)排除することだ。。。というタイプがまさしく私である。
 本に夢中になり、ご飯だよと声をかけられても気付かないで、家族全員が食べ終わってから一人で食卓に向かったのがティ-ンエイジの頃でした。
 そういえば、トイレで気がついたら肛門が乾いてしまっていた! なんてぇこともありました。
 無意識で行われる排除 と言うのは効率向上には便利(=局所最適)なものだが、安定性を損なう(全体バランス)方向性に気付かないというリスクを内包する。
 あれやこれやと目に入るものを全て意識に上らせて吟味していたら非常に疲れる(もしくは狂う)。 かといって意識的(言語的・明示的)に評価しないで、無意識的(評価以前の認識で欠落)に情報処理することを放置していては、組織の機能向上は実現しないものだろう。 それどころか、時には機能の維持や継承すらも危ぶまれてしまうものだろう。


 先にあげた 割り込み(interrupt) 競合(conflict / collision) の例にあるような、内部対立による処理の立ち往生は 組織(システム)の存在意義を損なう。 そうさせないいためにこそ、情報は共有される価値がある。反対に内部対立を煽るために情報を流すのは、情報の共有でも公開でもなく ワームかウイルスの所為である。

 上記の対偶となる命題は、
 共有する価値のない情報とは、自明であって内部矛盾──すなわち葛藤──の生じないもの。

ということになるのであろうか。
本当は会議がこうであればいいのだけれど、会議は利害調整の場となる側面が拭えない。 そのためか(特定した相手への情報発信ではない)ブログのほうが、記述情報は率直である気がするなぁ。
 ミーティングの場では、耳に痛い(葛藤を生じる)話が必ずしも実のある話とは限らない。
それどころか揺さぶりや油断誘導へ向けた言葉の落とし穴だらけ ── すなわち表面的な言辞が 内心の評価や見えない行動と裏腹な策略でしかない ── 場合もある。 < こうした輩は年長だろうと上っ面が人格者だろうといやだなぁ。。。

 先の命題にただし書きをつけるなら、自分の中で整理されているにも関わらず 相手の不安を掻き立てる 書き手や話し手のものは除外しても構わない。 これは言っている(書いている)内容以前に 話し手(書き手)の姿勢で分類しても構わない。
 内容が正しいかどうかで判断する技術を磨いたなら、いつかは、正しい人かどうかでその内容を想像することも許されよう。

 帰納と演繹とは、方向違いでありながら 相補的なものだから、直感と論理も同様に。
 そして理系センスと文系な努力も同様に。。。

面白くては(尻が乾くほど)没頭できるけど、つまらないと努力できないっていう人間の反省の弁
無意識という便利なこころのしくみは、便利さを享受しつつも安易に便宜的には使わない&使わせない。

 ・・・ そういえば 便とはくさいものだ。 弁が臭いというのは 自らを大きく見せようとするから。。。
ん? 字が違わねか? > 白が大きい と臭いだ w
post at 2007.03/18
editting in 2007.03/20




情報処理の世界や 思索の世界では、内部を伺いイ知れないものとして 入力と出力を行う ブラックボックスとして対象を扱うことがあります。

 ある入力Xを ボックスA と ボックスB とにいいれると。。。 同じ出力 Yを得た。

この関係が常に成り立つならば、「ボックスAとボックスBは 等価である」 といえます。

常にと強調したのは、(逆説的ながら)「完全に等価ということはありえない」 と思うから。
 同じ会社の同じ製品にも 当たりハズレがあるように、(遺伝子が100%等しい)一卵性双生児でありながら微妙に違いがあるように、AにはあるがBにはない & BにはあってAにはない そういう要素はきっとある。 そうした挙動はきっと潜んでいる。 という感覚がどうも拭えないのですね。
 例えばカタログスペックが同じでも応答性能が異なるとか。
 カタログやマニュアルの文面には表れない要素を行間から読み取れるだとか。
 ブラックボックス化は(物理学のくり込みと同様に)有用で便利ながら、意味するものを存分に読み取れて(即ち中身の明確なホワイトボックスとしての挙動を見通せて)こそ最終的には生きるのでしょう。

 ベン図で書くなら、こんな風。
A(非B成分)A .and. BB(非A成分)

この両側 ── A(非B成分).or.B(非A成分) ── がどちらも 「空」 にはなりえないと思うのでした。 無論自分で考える際にあまりに低確率の事象に気をとられて、本来の思考の道筋を踏み外すことは大いにあります。(だから、他の人間にそれを求めはしない)

 ちいさなことを地道に潰す作業は、技術的なものであり枝葉のことであり そして心に秘めおいた匠(たくみ)な姿勢に任せて邪魔しないでおくほうがいい。 (明確な定義をあれこれすると押し付けになりやすい) > 局所最適化は個人の意志が最後にはものを言う
 大きなことは明確な目標として定めて、その方向を見失ったときにだけ指摘を行えばよい。 < 最適化に目を奪われて、過剰最適(他要素を圧排するほど)であるとか不適放置(全体のパフォーマンスや安定性に著しい不都合を生じている)の場合にだけ問題視するので充分。


 長々といいわけ(?)したけど、断片的な情報だけが目に入ってくる場合に 内容的にはコメントを付けたいし興味もあるのだけれど、記事とするのが踏み切れないことがあります。 おそらく多くのブロガーさんが同様な理由でサスペンドしたり非公開としてしまった記事があることでしょう。
 昨今の医療関連の記事を目にして、興味があって関心が高いにもかかわらず、記事に出来ずにだんまりを決め込むのは、よくわからない事柄だから過剰な強調(つまり誇張ね)になりかねないということもありますが、それ以前に心の中で要素のコンクリフトが生じてしまうからでしょうか。

 ・・・ てゆうかぁ。。。 入学祝いに液晶テレビをねだられて LCDのオーバードライブは画質劣化の元? とか読んで、行間を読む力 = 知の力 であることをほんのちょっとだけ思い出したのでした。
 優れた備忘録がマニュアルとなるように、気を惹くだけでない的確な記事は情報の海の中で真実を繋ぎ止めるアンカー(錨 いかり)となりますように。
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by bucmacoto | 2007-03-18 13:29 | wave
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