2006年 10月 31日
※ この記事では参照する全リンクについて、別ウィンドウで開く設定としています。 二項対立的に物事を見ようとするのは、神経細胞の興奮特性(全か無かの応答)に起因するのかもしれないという説は幾度か目にしました。 そのような特性を、神経細胞レベルの応答特性から類推することは 短絡的な結論付けを招きかねないことでもあります。 けれども深く(あるいは入り組んだ物事を解きほぐしながら)論理的に考えるために、「神と悪魔」 「善か悪か」 あるいは 「白か黒か」 といったシンプルさに立脚しなければ多くの人に浸透する考えとして提示しにくいことも、これまた事実でしょう。 集合要素を図示するかのような簡潔で奇麗な論理に触れたときには、憧れをかき立てられるように感じるのは私だけでしょうか。 自分でなければ他者 → 自己と他者との対比 → 利己主義 vs. 利他主義 このように排他論理の多くは、対極として提示され対比されることで明確になります。 そして同時に、その要素の中間や重なりに言及することで、無理のない自然な論旨を紡ぎ出すものでもあります。 対極を示すことで、AでないものをBとする → 非AであるからBである → Bであるなら非A といった、循環と往復とを行きつ戻りつすることで論理の妥当性を検証することを可能にしているように思えます。 理系(数学科学系) vs. 文系(社会文科系) とを対比するのはよく目にします。 私がこのブログを持つ以前、こちら や あちらで展開していた検討内容などは、それぞれの魅力的なお人柄とあいまって興味のつきない展開でありました。 そこのコメント欄に、このような 「おばか⇔さかしい」 というコメントを寄せた記憶があります。
こういう別な軸を持ったり、別な切り口で見直すくせが私にはあるようです。 そういえば小学校の参観日の後で 「お前は先生の話の途中で、いつのまにか自分の考える世界へ行ってるんだねぇ。 途中から上の空って感じでさ。」 と、母から言われたこともあります。 そんな別の切り口のひとつが、上のコメントにした 「おばか vs. さかしい」 というものですし、後に(他人にはわけが分からないかもしれない)記事にした 「極座標 と 直交座標」 であったりします。 議論の途中にこういった観点を持ち込むことは、ディベートの精神からは望ましくはありません。 それは議論を混迷させる危険や、決着(勝負?というほうがピンときますか)を決定づける印象を薄めてしまうからです。 それでも、(たとえば自分が明白に優位な決着が目前でも)さいごの隅っこまでつつき合う ── いわゆる議論・討論・ディベート ── に耽溺するよりも、両極の共存を模索するような方法に惹かれてしまう傾向は、まさしく死んでも治らないのではないかと思うのです。 対話というのは、議論の遡上に上らないような取るに足らない小さなことや、自分で自分をいつのまにか無意識に縛ってしまって見えなくなっていることなどを、少しずつおぼろで不明瞭な形から明確なカタチへと切り出すよい手段だとおもうから。。。 ただひとつ、小さな誇張を積み重ねて大きなうそを信じ込ませるような手法を感じとると、かなりアツクなる癖があります。 それが正義の怒りならカッコイイのですが、ヨワっちいヒーローってのはどうにもさまにならない。。 というかなにが正しいのかを模索して堂々巡りしているうちにお墓に入っていそうだと思ったりもします。 inspiration vs. evidence という軸には類似形が多いような気がします。 インスピレーション(直感)には、少ない情報から真実を抉り出すような、核心を射抜くような、そんな中心志向・目的志向性を感じとれます。 一方で、エビデンス(科学的根拠)となると、より広範な情報から妥当性をとことん詰める感じ。 目的へと向かう手段についての正当性を検証・定量する姿勢がにじみます。 似たような軸として、思い浮かぶのが Art ⇔ Science です。(技術・芸術 vs. 科学・現実) このふたつの場合は、先の軸よりも容易に 先の対比とは別な連想が働きます。 前者(Art)を種・萌芽・蕾とするなら、後者(Science)は幹であり枝であり葉であるという連想です。 Artistには、芸術家・作曲家・画伯・詩人などが含まれるのでしょうが、匠な職人なども同様な性質があるとおもいます。 情報が充分ならばそれに対して教科書どおりになぞれるだけではなく、乏しい現実情報から豊富な 「なるほど!まさしく!ぴったり!」 といったinspire(励起:れいき 奮いたたせる)な性質です。 現実世界のアーチストには、プロデュース能力を開花させる方も多いようですが、とことんアーチストの特性を熟知してこそ そういったビジネス(功利勘定世界)の現実に漕ぎ出しつつアーチストの魂を磨いてゆけるのでしょう。(あー、これは一般論です。音楽業界とか疎いw) Scienceの歴史にもたくさんのインスピレーションに恵まれての発見が多く残されています。 また未証明ながらもかなり確からしい仮説も豊富に見つけられています。 その多くは、徹底した観察(データ収集)からバイアスを排して純粋な(つまりは味気のない)データを抽出して、吟味と検証を重ねた上で、中心を貫く細く確かな一本の線を描くことでなされたものです。 その弱弱しい線が事実の積み重ねの上で、より確かで太く確固たる根幹へと育ってきたものです。 そうした見方では、『Art vs. Science』 は、片方が増すと片方が減るようなゼロサムなものでもなければ、排他的な性質でもありません。 いわば相補的な、もっと言うならば一枚の紙の裏と表とをなしている『表裏一体』な性質すらありそうに思えます。 夢と現実と 直感と論理と あるいは 文系と理系と どれもが、排他的なものだと錯覚している(あるいはさせられている)だけで、ひとつの事象のふたつの側面だと言う気がします。 どうしてか、私の好きなArtistの作品には理系の匂いがします。 なぜだか好きなScientistの論文には文学の香りがします。 どちらかを捨てるのではなく、どちらも中途半端に終わるのではなく、根と幹と枝と葉とを存分に繁らせてから、ゆっくりと花を咲かせ実を結び次世代への種を結実した人というのは凄いなと思うのです。 表は神で裏側が悪魔というヒトは嫌いですが、表がエビデンスを標榜しながら裏にはインスピレーションがあるのも(というよりむしろあったほうが)自然なことだと思うから。 両方の極を、いったりきたりしながら、ヒトは自然な確かさを増すように感じるのです。 ※本来は、http://absinth.exblog.jp/ & http://blog.goo.ne.jp/g-cafe へのTBをしてもよいのですが、かなり(約2年)前の記事なのでとりあえず控えることにしました。
by bucmacoto
| 2006-10-31 08:04
| duality
|
Comments(1)
Commented
by
bucmacoto at 2006-10-31 23:28
これっていくらでも並べられる類のものですね。
主観⇔客観 一極⇔多極 集中⇔分散 et al. 個人的には、物理⇔化学 という対比がしっくりしたりします。 化学や生物は羅列事項の暗記が多くて敬遠したのだ ^^;
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