2005年 07月 28日
もつれた糸を解きほぐすのが科学
糸の素を撚(よ)り集めるのは技術 「科学技術」とひと括りになりやすいけれど そしてそれは関係が深くて不可分に思えてくるけれど 科学は帰納 (なぜか? どうしてか? そして最後はなんのためか?) 始まりを求め、プロセスを分解し、終わりを予言する。 感覚から、言語(要素とシンボル)を抽出し、再構成する基本データを整理する。 その命綱は、普遍(真実) 技術は演繹 (いかにして! こうやって! これだけはやらないで!) 始まりを知ってはいても追い求めない。 プロセスを工夫して、組合せタイミングを調整して、おしゃかにだけはしちゃならない。 レシピ(科学)に従いながら、レシピの行間を読みながら。 観測された事実に分け入ることで, わかっていたと思い込まれたものに 新たな名前をつけ独立させ、 知を深める. それが哲学(Philosophy:ギリシャ語で 知を愛す)をルーツとした「科学」 分解された材料を連鎖させることで, 出来はしないと思い込まれたものに 新たな展望を開き繋ぎとめ、 知を高め広める. それは匠の技と同じ, 磨かれてこそ生きる「技術」 むかしむかし, 医術が神のみわざだった頃, 収穫が神の恩寵だった頃, 厄災が神のいかりだった頃, 病は悪魔が取り付いた姿で 飢餓は感謝の枯渇が原因で 安息は罪業の消滅の証(あかし) EBMということばは,(少なくとも私には)「科学的根拠に基いた医療」を意味する。 どこかで誰かが書いていたような enterprise based medicine を志向する言葉ではない。 (enterprise : 事業) かつて神への信仰が事業となったときに、不死である神は死を迎えたように, 収益という名の"金銭的収穫"を促成栽培よろしく生産しようとした医療があるなら、 死への挑戦者である(死神からの守り人たる)医の心は死するのだろうか。 尊敬される,感謝される仕事をする人というものを一口で書くならば、(誰かの文の複製だが) 「自分自身を失業させる為に頑張り続ける人」病気をなくするために研究する研究者 痛みを分かちあい痛みを苦でなくなるため援助する者 無知を駆逐するためにより確かな教育を学び続ける教育者 みんなみんな、ひとの上に君臨するのではなく,ひとを下支えするために頑張っている。 だから(支えになり続け 援助する意思ある限り),人から信頼される。 その一方では,他者を支える意志を失った人ならば、非難される。 科学のはしくれであるなら、事実にさめた情熱で眼をむけるがいい姿勢というものだろう。 技術の末席に座るなら、不似合いな姿や仕打ちをひとにしては、健康を損ねたのと大差ない。 * 何が不似合いでひどい仕打ちとなるかは 時代や歴史や国境や法律でちがうのだろうが、 その原点は結局は "本人の意志" ということだと思うのです。 どこまで病を叩こうか,戦おうか、どの程度ならみんなも我慢できるのか、どのくらい勉強しようか. 帰納(科学)も大切だし、演繹(技術)も大事。 どちらも結局は人間自身のために使われてこそ生きるもの。 どちらも人間によって生かされるもの。 普遍性を突き詰めよう,真実を求めようとする ひとつの答の追求。< 科学は普遍を 多様性を究めよう,ちょうどぴったりなフィットして落ち着ける状態への調整。 < 技術は個別を そうあってほしと、ありたいものだと、小さな声で 今日もつぶやこう。 併合を目的にせず,調和を利用手段にすることなく、共生あれ。 初稿 : 2005.7/28 modifyed : 2006.4/9
by bucmacoto
| 2005-07-28 19:40
| particle
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Comments(14)
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bucmacoto at 2005-07-28 21:18
入職後最初の一週間のオリエンテーションで示されましたね。
「患者中心の医療」 ← この対極にあるのが 「立場中心の医療」 って care(注意を向ける) と cure(額に手をかざしてみ守る) の違いと共に う~ん学生のときにこういったこと習わなかった(憶えなかった?)のって… やっぱ恥ずかしいことかしらん? ((((((((o_△_)o サァーシラン
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hannah5 at 2005-07-28 22:39
私から見た科学は、すでに存在しているものを発見し、意味を与えていくものだと思います。
だから、科学による新発見は実はすでに在るものなので新発見ではない。 ただ、確認されていなかった存在を日の下にさらしたという感じがあります。 あと、科学は万能ではないですね。 いつも変化させざるを得ない。 今までしていた説を裏返さなければならない。 かなり自由自在であるがゆえに、科学における究極の信頼性はないのではないかと思っています。
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bucmacoto at 2005-07-28 23:46
* はんな さん
コメント来るだろな という予想が的中。(予想にもならないほど当然かもね) 言葉の定義から始めないとすれ違うのでほどほどで(^^) 「発見」 < 私の脳みそ中では次のように分類 「本来(自然に)、存在していたが、人間が全く知らないか 不十分にしか知り得なかったもの。」 ⇒ これが 明らかに知識化されたか 不十分さが減少した場合 ex. 原子の発見,新たな法則の発見,地球がまるいということの発見 こういう意味あいでしか発見という言葉を使えません。 ですので、実は存在しないものを発見したというのは でっちあげ か いかさまか 錬金術でしょう。(あくまで,私の脳みそがそう思うだけです。事実は違ううのかも知れません :○p) 発明という言葉は以前に 「神は発見か発明か」という論議でふれた気がするので省略します。 * ちなみに、歴史的には 現代の科学は、古代ギリシャ哲学と中世錬金術の系譜であるとは私も考えています。 不自由(全能者の名の下に制限された)であったがゆえに、不変ではあったが普遍性に欠けるきらいがあったのが中世宗教世界かと... ex.骨粗鬆症などの老女を魔女扱い,地球は丸い=すなわち異端 つづく
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bucmacoto at 2005-07-28 23:46
つづき
事実としっかり整合する = 信頼できる 事実と整合しないが 記録のつじつまだけは合う = 信頼できない ↑ こんな考えを持っている人間なのです。 秩序の名で制限された自由(不自由さ)は過去に信頼できない教条(ドグマ)を強制したゆえに、「神(別に仏でもいいのです)は死んだ」と書きました。 ま,本当に悪かったのは 権威の名を借りた不誠実な人間なのですけどね。 誤解を避ける意味で書きますが、私は「罪人は神が裁く(または赦す)」という考え方自体は嫌いではありません。 (不完全な)人間が 別な人間を(権威の名の下に)断罪する。 < これが嫌 間違いを犯すかもしれないという「おそれ」を抱きながら生きている..そういう人こそ誠実だと謙虚であると思うので... < どちらかというと好き 善か悪かではなく 私の 好きか嫌いかを述べているだけです。 ("善と悪 は 好きと嫌いの多数決" ってのもむかし書きましたよね。 正しい と 邪(嘘) と 間違い の組合せで・・・書いてなかったも ;;)
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hannah5 at 2005-07-30 00:24
「発見」の定義は私の定義と同じだと思いますが。。。
もしまことさんに通じていなかったとしたら、私の言葉が十分でなかったのだと思います。 それから、ここでは科学と宗教を対比させて議論しませんでしたよ。 私の立場が宗教的なものですから、どうしても科学vs宗教という線で議論していると思われがちですが、 ここでは、科学の信憑性のみについてコメントを書いたつもりです。 科学も、科学者の意見とか議論等をよく見ていくと、科学教だと思います。 科学に絶対の信頼を置く。 科学が万能(almighty)だと思う。 科学者と宗教家は紙一重だと思えてなりません。
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bucmacoto at 2005-07-30 14:16
次の部分で、発見の定義がまるきり違うかと引っかかりました。
>・・・新発見は実はすでに在るものなので新発見ではない。 私の脳みそ中では、「新発見」という意味と 「新解釈」という意味は、(事実上の)同義語かもしれませんね。 新解釈のうち,より真(True)に近いシンプルな知見は 新発見。 新解釈が偽(False)情報を選り分けすることにミスしていたら(事実を見失っていたら)、死すべき神話。 確かに私は科学教徒ですね(笑) 自己言及的な文章で インチキ臭いのですが,簡潔に書くと、 「絶対の(永遠の)真実なんてない。 ふたつの例外を除いては。 ひとつは、あらゆるものに始まりがあったということ。(ユニバース神話)」 もうひとつは、 このたったひとつの経験則に従わないものは事実ではない可能性が高い」
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bucmacoto at 2005-07-30 14:18
話を投稿本文に戻します。
ここでのパラダイムを、直感的で分りやすいモデルで言えば, 事実として観測された現象を図書館(人間のこころの内,頭の中・腹の中)へ せっせと運ぶ(帰納)するのが 科学という姿勢。感受性が大切。 図書館に溜め込まれた情報から、現実への取り組みをあれこれ試行錯誤 するのが、技術者。実践と応用で現実のモノを組織をカタチ創る(演繹)。 事実と現実に対する謙虚さがあってこそ、(まともな)科学。 都合の悪い(それまでの定理と整合しない)事実を、受け止めて理論を修正してゆくのが、科学的な思考姿勢。 現実に対する傲慢さに溢れているのは、科学の衣を着た司書官かと。 例:「これまでのリストにありませんので、誤った事実ですっ!」 こういうのが、EBMの 落とし穴だって感じているので、書きました。 * ようは現実に学ぶ、自然を現実を先生として尊び奴隷にはしない。 (えーえー,科学教ですとも。 破顔笑)
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hannah5 at 2005-07-31 00:29
「発見」について、大雑把に言ってしまったので、まことさんの意見と違うように感じたのかもしれませんね。
まあ、私は科学者ではないので、言葉の定義づけに関して細かく分けることはむずかしいです。 でも、まことさんの意見と同じだという印象をもちました。 事実と現実の話を聞いていると、やっぱりどうも科学には絶対なるもの(有史以来、未来もずっと不変であるもの)はないのだと思いました。 ここで、キリスト教との比較をしますが、聖書に「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」という言葉があります。 神なる存在(父なる神、御子なるイエス・キリスト、聖霊の三位一体)は過去も現在も未来も変わることがないという意味です。 科学が現実に則して変化してきた間に、神は変化したことはありませんでした。 神学といわれるものは変化したかもしれません。 けれど、神が天地と万物の創造主であるということ、キリストのあがない、神の愛は昔も今も変化したことはありませんでした。
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hannah5 at 2005-07-31 00:29
私が神に信頼を置くのは、変化し続ける社会(科学も含めて)の中で、絶対変化しない存在があるということ、愛というものを昔から変わらず述べているからです。
変化するものに絶対的な信頼を置くのはむずかしいです。 たとえ、それがどんなに精密であり、精巧にできていても。
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bucmacoto at 2005-07-31 11:20
* はんな さん
日経サイエンス 2005 6月号 p102のコラムで次のことを知りました。 1992年11月 ローマ法王(当時)ヨハネ・パウロ2世は、 コペルニクスの地動説を支持したガリレオガリレイにたいする異端審問は誤りだったと認めた。 *350年4ヶ月ぶりにガリレオの名誉は回復され、カトリックは地動説を受け入れた。 その時のヨハネ・パウロ2世のコメントに 「神学者は常に科学の成果に目を向け、神学の解釈と教えを再検討すべし」 1996年10月に、同法王はダーウィンの進化論について、 「単なる仮説以上の根拠のあるもの」 として130年を経て容認する姿勢を示した。 同法王は、トリノのサン・ジョバンニ大聖堂に伝わるキリストの遺体を包んだとされる「聖衣」の科学的な年代側手も許可した。 炭素同位体年代測定結果では14世紀の作であるとわかった。 コメントは省略。(今回は記事抜粋引用のみ)
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hannah5 at 2005-07-31 23:25
う~ん、これ、科学者の立場からの引用でしょう?
地動説の前は何説と言うのか知りませんが、つまり、地球が平板だったという説。 あれは科学的な「解釈」(あるいは発見?)ですよね。 ダーウィンの進化論はあり得ないと否定している科学者がいます。 どういうことかというと、あれは猿が人間になった話でしょう?(簡単に言えば) ということは、猿の血液が人間の血液に変化した? んなバカな^^; 従って、進化論の部分は却下! キリストの「聖衣」なんてあり得ません。 トリノのサン・ジョバンニ大聖堂に伝わるキリストの遺体を包んだとされる「聖衣」? カトリックはやたら神秘化、伝説化したかりますからね。 誰も本物を見たことないしね。 ルルドの泉とおんなじです。 ま、聖書とは関係ないっす。 言いましたよね、神学は変化するって。 神学はね、人間が聖書に解釈を施したものなんですよ。 だから、変わりうるわけ。 でも、神は変わらないのですね。
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bucmacoto at 2005-08-01 00:11
前半部分の理論(?)はノ~コメント(笑)
最終行にのみコメント。 同意いたします。 神は変わらない = 真理は不変 それをみる目が、感じる脳みその解釈が変わるだけですね。 お名前を 神と名付けるか 真理と呼ぶか はたまたHyperPowerと感じるか。 対象はおなじ。(これ断言いたしますね) 人の外にあり、同時に内にあり、まさしく遍在するものだと思いますよ。 こんなんでいいでしょうか? これ以上やると、重箱の隅攻撃モードになりそうなので・・・ ^_^ゞ;;;
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hannah5 at 2005-08-01 01:07
ひとつ言い忘れたと思って戻ってきたら、もう、まことしゃんのお返事がありました^^;
ダーウィンは死ぬ間際になって、進化論は間違いだったと認めました。 進化論は実際の証拠データの積み上げではなくて、推測の理論だそうですよ。 つまり、ダーウィンがオツムの中で考え出した理論。 頭いいよね、たくさんの人を納得させちゃうんだから。 でも、最後に彼は間違いだと言って、クリスチャンになりました。 科学の限界かしら?^^
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bucmacoto at 2005-08-01 15:09
* はんなしゃん(笑)
なんか青春の門(筑豊編)ふう ^^; ダーウィンはクリスチャンであったと理解していましたよ。 種の起源のアイデアが生まれたときから 「神の存在とは矛盾しないか」 と悩みぬきながら(約20年)、論を完成させたと聞いています。 アインシュタインが敬虔なユダヤ教徒であったことも、量子論(確率主義)に対し 「神がサイコロ振って 宇宙を統べているとは思わない」 との発言で全面的に対峙したこともあまりにも有名です。(後にこの発言を撤回し量子論を部分的に支持) 根っこは同じだから、共通していると思ってtもよいですし。 別物ととらえてもいいですし。 ラーメンとうどんの違い? < 乱暴なっ せめて インスタントラーメンとカップヌードルとの違いと言いえっ!? (笑)
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