2005年 04月 29日
卵が先か鶏が先か ?
これを 現代の流行に合わせて言うなら, 遺伝子が先かタンパク質が先か? あるいは DNAが先かRNAが先か ? とでも表現できようか。 鶏 ⇔ 卵 記憶⇔記録 現象⇔原理(法) これらの切り口には 類似性を感じます。 (ぶっちゃけ,私の中ではおんなじデス。) ゲームがあって ルールが作られたのか / ルールとパラダイムがあって ゲームが始まったのか 時を経ると よくわからない... 現実があって (それをつじつま合わせる説明ができるから)神を見つけたのか / 神がいて計画したから この宇宙自体が成立したのか 一瞬の違いなのか 悠久の異なりなのか よくわからない... 絶対のものがない 相対論 絶対のリファレンス(基準)としたのが、光速度は不変であること。 どのような測定系(静止系 運動系)においても 普遍な光速度を得られることを前提に, 加速度と重力とは 相互に互換性があるという 等価性。 ふたつの基準から あらゆる法則へ論理的(ある意味 数的)な 帰結を求めた。 後天形質は遺伝しない 進化論 ダーウィンの自然淘汰 + メンデルが明らかにした二つの遺伝子(優勢劣勢) 突然変異という偶発 + 自然選択という必然 自然選択・自然淘汰という 「より外界に適応したものが 生き残る可能性が高い」 という説明を、 適者生存という 【より優れた種族が生き残る "べき" だ】 に曲解した人類史上の汚点:ヒトラー * 原理は同一でも 解釈を誤ると怖い。(狂気と結合すると 恐怖の沙汰) 人を分けるのは、肌の色でも、人種でも、大切にする思想でも、信ずる宗教でも、どれでもなく, 他人との差異を強調する以上に、他人と 共有できるものが互いの内に在ることを(心底から) わかっているか / わからないか < 別表現なら 他人の中に自分を見出せるか/否か だと こう おもうのです。 相対論と進化論は 現代科学に(過去の集約として)残された知的遺産かと思います。 帰納して得られた基本原理であり, 演繹して得られた事実解釈も多々。 ゲームの観察から ルールを帰納的に得ることも (知的水準が高いならば)できるでしょう。 ルールの適用から ゲームを演繹的にプレイすることも(仲間さえいれば)できるでしょう。 卵を得たなら 育てることで 鶏を得ることも / オムレツか目玉焼きで食べてしまうことも どちらもできる。 育った鶏から より多数の卵を得ることも / 卵を埋めなくなった鶏は焼いて食することも どちらもできる。 無精卵を中途半端に温めそこねて腐らせるはヤだ。 育ちかけた卵や雛を 育て損ねて失うのはイヤだ。 卵を産み始める前に 柔らかいからと食してしまうのは もったいない。< 貧乏性 卵が先か 鶏が先なのかは 判らないが, (最初の存在はあったとは思う = 卵であり同時に鶏みたいな・・・ アメーバか w) こうしてみると 【次世代を産み落とす / 育む】 母性と言うものはすごいものだ... オスは若いうちに食っちまうに限るか(w 初投稿 2005.4/12(tue) 公開 同年同月28 更新2005.4/29(fri) (緑の日:旧天皇誕生日 昭和天皇=裕仁) 「実にこの世に於いて怨みに報いるに、怨みをもってしたならば、ついに怨みのやむことなし。 怨みを捨ててこそやむ。 これは永遠不変の法である。」 ―ダンマパダ(法句経)― ↑ リンク先は 引用したインフォシーク・プロフィールの日記URL 二千六百年前にブッダが, 二千年前にナザレのイエスが, 1,450年前に ムハンマド(マホメット)が, 背景はそれぞれながら、破壊よりも創造を 分断よりも交流を 殺戮よりは命護るを、訴えた。 「仇討ち」 という行為は ある時期までは 日本においても認められていた。 <仕返しならば → 仕方がない> という認識は 素朴で 説得力がある。 大脳新皮質という理性は、うらみを捨てよ/打たれた頬と逆の頬を差し出せ との意志を発すれども 中脳~大脳辺縁系の古くからの情動反応は、目には目をもって償え と叫び続ける。 この項は 書き出すときりがない。 恨みの連鎖も 果てがない。 自然に培われ種全体の共通認識として、嫌悪と攻撃と回避をする相手を 天敵という。 人為的な刷り込みによって、特定のグループへと 敵意を誘導し固定するは、人敵だろうか。 人を原因とする天災は人災。 人為的・作為的な敵は どう呼ぼうか。 そんなものは 捨て去りなさい ← あまたの宗教改革者は (そして挑戦者は) こう叫んだ。 それでも捨て切れなかったから 今も残った。 そうして逆に捨てきられたから 在り所を遷した。 (相手を)殺す心を殺せ。 憎しみの情を 慈悲へ,愛へ,秩序へ と昇華させなさい。 古い秩序として捨てられた中に 新しい秩序の雛形がすでにあり, その新しかった運動は いつしか古い秩序に成りかわってしまう。 新しい憎しみは 古い恨みを呼び起こし, 古くなった悲しみを 新たに嘆かせる。 それでも いつか 限りがあるはず。 この地球に果てはなくとも限りがあるように... 私は そう 祈りたい
by bucmacoto
| 2005-04-29 13:27
| duality
|
Comments(0)
|
おきにいりすと
closing / sleeping
イラスト
わるとも
Photo plus α
からだ と こころ
archive in this blog
統計資料・PC史資料など
勝手に応援
machine translation
以前の記事 カテゴリ
タグ
日記録(345)
市内風景(296) 小さな説(255) 写真と画像(217) 詩もどき(180) 回顧(109) おふざけ(94) science(79) 備忘Log(65) &Tips;&code;(62) おはなし(61) 夢想(57) 冬雪景(48) nursery(36) (?_?)(30) star&moon(29) my function & character(29) aha♪ / esprit(28) work_list(22) 食記録(18) 若者への手紙(17) present(13) 一画一句(11) 文・人・理(9) 春花草木(8) 記事ランキング
最新のトラックバック
検索
その他のジャンル
ファン
|
ファン申請 |
||