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量と質
2009年 04月 17日
量と質とは、なかなかに面白い位置関係にある概念だと思う。

量は満たしても質に問題がある・・・というように対立的・相反するように脳内で配置されることもあれば、反対に、反復練習という量を通じて質が向上する・・・という具合に同質的に捉えられることもある。

一般に、量といえば外的な比較=計量で得られたものを指し、質といえば内的な充実度や完成度を指す。

 物理でいう「質量 mass」っていうのは計量されうる量であり、同時に、物質の「質 = 要素比」を窺うモノサシでもあります。 本質的な量という観点では慣性質量や同位体質量数があり、他者比較という(相対論という意味ではなく一般的な比較原器に依存するという意味で)相対性が色濃いのは重力質量や重さ軽さという感覚の方であるかも知れない。

さっくりと分類するなら、客観性と普遍性という外向きの概念が量、主観・認識・比率といった内向きの比率や確率に支えられた概念が質ということになるだろう。


情報の量 というものを一般的な口語の意味ではなく、物理量として定義した場合には単位はビットになるという。 ⇒ 情報量 - Wikipedia


そういえば、熱力学第二法則 = 宇宙のエントロピーは増大するばかり というのを十代の頃には理解し切れなかったものだ。

エントロピーが増大する
 → 混沌さが増大する
  → なのに秩序ある構造が自然発生する(生命の営みとか自己組織化とか)
というのはどうして? という感じだった。

そこに持ってきて、エントロピー(混沌さや乱雑さの指標)が、情報量(シャノンエントロピーでのビット)につながる概念だというのが当時の私の脳みそでは納まりの悪いモデルだったのだ。


まぁ今だって理解に大した差異があるとも思えない。
ざっくり言ってしまえば、次のように理解して分かった気になっているだけである。

・宇宙のエントロピーは増し続ける
・すなわち宇宙の情報量は増え続ける < これは必然的=これ(熱力学第二)は経験則
・情報量はランダムであるほど大きい。 これは圧縮処理が困難となることからも自明。
・いわば、「宇宙の始まり=完全に一様な輻射に満たされていた」ってのは、非常に情報処理的には圧縮の効く状態だった。
・そして、宇宙の均一さが低下する=情報量が増す=多様さが増え続ける。

そういう意味で、銀河のような構造が生まれ、物質の種類が増え(すべての物質は恒星重力下の核融合や超新星爆発で生まれた)、生物種の多様性が生まれ続けるのは自然の摂理といえるのであった。

・・・・あー、とうぜんながら ↑ は暴論です ^^;


情報というと、言語・音声・画像などの形式で伝達されるのが一般的な人間の場合である。

言語の質・・・というと、音声の明瞭さ、文字の易読性、などの物理的な量に裏付けられたものと、言語が伝える情報の正確さと明確さ(過剰に多義的だったり デマゴーグっぽい言辞を多用するアジテーターの繰り出す修辞まみれの言葉と対極にある = いわゆる美しさ)に立脚するものとがあるだろう。

音声の質 というと、通信技術で物理的な向上のために感度(ゲイン)・周波数静特性・MTF(波形再現性)などが指標となって物理量的な計測を行い得た。

画像の質も同様に、感度・対比度(コントラスト)・粒状性(ノイズ)などの指標で表しえた。 またデジタル系撮像システムの場合には、MTFと解像力(空間分解能)と量子化密度(濃度分解能)とが向上し尽くしつつあり、感度向上の帰結として量子的な光子獲得特性(DQE:量子検出効率)を議論するほどになってきた。


こうして「質」と呼ばれるものを計測可能な量の観点から列挙すると、質を損なうもの、質を低下させるものとして共通するものが明瞭になる。
それは ノイズ(雑音)である。

画像にノイズが多いと、特に青空のような完全に一様な風景を撮ると質の良し悪しが明確だ。(ほかに、低感度にして長時間露光したときのコントラスト再現性や、低照度で高感度で撮った場合に質的な実力は如実にわかる)
音声にノイズが多いと、聞き取りにくいし音楽などは興がそがれやすい。 音の歪み(3倍音成分のような高調波歪み)も、原音から派生したものの原音にはない成分なのでノイズの一種だろう。
言語におけるノイズとは、いわゆる(広い意味での)うそだろう。 誇張・矮小化・捏造・隠匿・因果の交換(結果をあたかも原因であるかのように論ずるなど)、つまり、量(ボリューム)を上げたり下げたりするような操作の痕跡で本来の情報を損なってしまうようなケースだ。 いわゆる過剰な修辞というのも(偏ってはいるが)一種のノイズといえる。


良質であるということ・・・それには不良を最小化するという努力は欠かせないかも知れないが、人間のゆらぎ(気分の変化や体調の良し悪し)をゼロにするなんてことはできない。
(もっとずっと単純で決まりきった動きしかしない機械ですら時に不良品を吐き出す)

質というものが、量の比率 ── 内的確率分布(どれだけ対象に心を向けられたか) ── であるのなら、それを支えるのは理念や信念のような内的良心と、自分が出力した情報の品質に関してのゆがみのないフィードバック(つまり おべっか や へつらい や、悪態 や 罵倒 といった誇張のないフラットな鏡像認知)だろう。


そういうシステマティックな観点から、うそを唾棄したのがかつての偉人・宗教家だったのかも知れない。 でないと、良質な思想なんてものを残せるように育つはずがない。
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by bucmacoto | 2009-04-17 22:09 | particle
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